父を偲んで [給料袋メッセージ91]

きょうは夏賞与の支給日。
給与(賞与)袋のメッセージを書きました。
きょう7月6日は17年前に亡くなった前社長である父の命日でもあります。父を偲んで書きました。
(通算91号)

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

いつも社業への貢献、ありがとうございます。きょうは夏の賞与の支給日です。

 

この季節がめぐってくるたびに思い出すことがあります。17年前の1999年7月の初め。前社長だった父・坂元良三の病床を当時の社員全員が見舞ってくれたときの光景です。癌が転移していよいよ最期というとき。父も社員の皆さんももうすべてがわかっていました。23歳で結婚してから40年間をこの会社で過ごした父にとって、会社との別れの瞬間だったと思います。もうこの光景を知っているのは、母、姉と荒川さんだけになりました。

 

当時は山一證券が自主廃業した頃で景気も悪く、鉄鋼業界も不況で「鉄冷え」と言われていました。ずっと堅実経営を続けてきた父でしたが、足元が赤字だったうえに自身が病魔に犯され、さらに後継者の私もひよっこ。会社の先行きを案じていたに違いありません。
その数日後、父は息を引き取りました。享年62。生きていたら今年まだ79歳。健康さえ許せば、いまも会長として会社にいるはずです。

 

振り返れば父はその前年の5月、腹部に違和感を覚えました。精密検査を重ねて判明したのが「すい臓がん」でした。その時私は28歳。父の長男として会社を継がねばならぬ立場はわかっていたものの、ある志を持って他業界に勤めていました。

 

そんなとき大阪から入った「父倒れる」の知らせ。当時私が住んでいた名古屋の丸善(書店)で医学事典を立ち読みしました。「5年生存率は10%」と書いてありました。私は勤め先を辞職し、父に詫びを入れて大阪に帰りました。父は手術して病変部を切除。しかし取りきれず、その後も抗がん剤治療が続きました。

 

退院後の父は、入社1年目の私に商売と仕事を鬼のように仕込んでくれました。寿命をわかっていたかのようでした。冬が過ぎて翌年の春ごろ。一時は投薬治療が奏功して癌が小さくなったこともありました。私たちは病状に一喜一憂していました。

 

しかしそれも束の間、6月になって容態が急変。6月25日、父の最後の入院。「鰻が食べたい」という父に、私は買いに走りました。病室で母と私の三人で一緒に食べた鰻のお寿司を、父は本当に美味しそうに食べてくれました。それが食事らしい食事をした最後でした。

 

医師は私に「あと2週間もつかどうか」。その言葉は正確でした。7月に入った頃、社員さんが病室を見舞ってくれました。それが冒頭に書いた皆さんとの最後のお別れ。7月6日、足早にこの世を去りました。

 

62歳という年齢を思えば、経営者としてはこれから最も脂ののる年代です。父は23歳で母と結婚し、母の父母が経営する当社に入りました。そして第1次石油ショック後の不況期に祖父から社長をバトンタッチし、37歳で2代目社長になっています。当時、最大の得意先が倒産して会社は苦境でした。それを立て直して経営を守りました。慎重の上にも慎重を期した性格だったため事業を大きく拡大することはありませんでしたが、社員を大切にし、堅実経営を守り抜きました。

 

かつて「会社を継いでほしい」という父母の願いに背いて大阪を出て行った不肖の息子だった私にとっても、これから親不孝を挽回しようという矢先の痛恨事でした。しかしその後、生前の父を知る多くの方々や社員の皆さんが新米社長の私を一生懸命に支えてくれました。おかげであの苦境を乗り切ることが出来ました。本当に感謝しています。父も同じ思いのはずです。

 

そのころ、肉親に死なれてしまった寂しさがどうしようもなく襲ってきました。思い出したのが高校の時の国語(古文)の時間に教わった単語――「おかくれになった」です。日本の古語で「死ぬ」ということの尊敬語です。まさに「お隠れになった」という意味です。

 

高校生の時にはピンとこなかったのですが、父を亡くした当時、この言葉が妙にしっくりと理解できました。確かに父は亡くなったし肉体は火葬もしたのですが、それでも「いる」気がするのです。これは17年経ったいまでもそうです。本当に隠れていて、どこかで見ている。極端な言い方かもしれませんが、一日とて父を思い出さなかった日はありません。それは後継ぎとして同じ職務をしているためかもしれません。こんな時、父ならどう考えただろう、どう判断しただろう、どう動いただろう。聞いてみたいことは山ほどあります。

 

そして結婚した時、子供が生まれた時、工場を新築したり、プラズマやレーザーなどの新設備を導入した時など、どれほど見てもらいたかったか。いや、どれほど「ほめて」もらいたかったか。歳はとっても、子供とは親にほめてもらいたい、認めてもらいたい存在なんだと思いました。

 

でも「おかくれ」になっているだけだから、きっと見てくれている。そう思っています。というよりも、そうです。そうに違いありません。

 

父の後を継いで17年。さまざまな出来事がありましたが、いまも社員全員が仲良く仕事をし、多くのお客様が会社をひいきにして下さっています。その結果、会社として存在を許されています。ありがたいことです。

 

きょうは個人的なことを綴ってしまいました。父の命日に免じてお許しください。

 

今期も良いスタートを切っています。所期の目標を達成すべく、引き続きよろしくお願いします。

 

2016年7月6日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三