【思いの原点】 その① (先代、先々代のご苦労)
きょうは24日、月給袋のメッセージを書きました。
先月訪れた「日本一の旅館」和倉温泉の加賀屋さんから学んだことから書きました。
圧倒的な成果を上げている裏には、どんな思いがあったのか、考えてみました。
(通算101号)
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
先月、経営塾の合宿で石川県・和倉温泉の旅館「加賀屋」を訪れました。
「プロが選ぶ日本のホテル旅館」で36年連続1位。
明治時代から始まるこの旅館を継承し、確固たる地位に押し上げた小田禎彦会長からお話をお聴きしました。
いまや「日本一」と称される加賀屋ですが「初めは三流の木賃宿」(小田氏)。和倉温泉でも後発組でした。
「昔はすごい老舗が沢山あった」と小田氏。
のちに加賀屋は大規模投資に踏み切ります。
本館を新築し、時代に先駆けた料理自動搬送システム、企業内保育所などにも積極投資。
サービスやおもてなしに磨きをかけて高級路線を維持します。そして36年連続の日本一。
その一方、かつての「すごい老舗」だった旅館は経営不振に。
「ハゲタカファンド」とも言われる外資に買収され、低価格路線のチェーンとなってしまった現実も。
では、なぜ加賀屋が日本一の存在となりえたのか、ほかの旅館が仰ぎ見るほど「おもてなし」のクオリティを磨けたのか。
その「思いの原点」は何なのか。小田氏によると原点は「過去の失敗」でした。
先代女将で小田会長のお母さんである「小田たか」の話。
和倉温泉にまだ大きな旅館がなかった時代、団体客が幾つかの宿に分宿しました。
船で波止場に到着するお客さまを、それぞれの宿がお出迎えします。
加賀屋の女将が出迎えると到着までにまだ時間があった。
それで旅館にちょっと戻って横になったら眠り込んでしまい、お出迎えに遅れてしまった。
そのお客さまを宿にお連れすると部屋の灰皿に吸殻が一本残っていた。
そこでお客さまはカンカンに怒った。
「一番小さな旅館なのに、出迎えは遅刻するし、掃除も行き届いていない。こんな旅館に泊まれるか!」
恥ずかしかった。
それで奮起。「もう一度来るよと言ってもらえる一流の旅館になってみせる」と誓った。
小田会長は、こうも語っています。
「恥ずかしい話ですが、私が大規模な設備投資に踏み切ったのは、1970年代のある出来事が切っ掛けでした。
妻である女将の真弓が『部屋が古い』とお客様からお叱りを受け、おわんのふたを投げつけられたのです。
設備がきれいなほかの旅館と比較されて悔し涙を流す妻を見て思いました。
旅館のメンテナンスを怠れば、妻のみならず従業員のモチベーションは下がり、停滞につながる。そう痛感しました」
日本一の存在に至る裏には、このような「思いの原点」がありました。
ひるがえって、坂元鋼材にとってのそのような原点は何だろうか。
三代目の私にとっては、考えてみると2つの思いに集約されます。
当社の始まりは1935年(昭和10年)、播州・山崎から祖父母が大阪・九条に出てきて鉄の商売を習ったのが最初です。
農家の長男だった祖父、そこに嫁いだ祖母。
それなのに田畑を弟に譲って出てきています。
祖母によると「どうしても商売がしたかった」。
戦時中は空襲を避けて疎開するも、1949年(昭和24年)には大阪に舞い戻っています。
自分たちの作った米だったのに一粒も持つことなく、着の身着のまま。
祖父41歳、祖母33歳。11歳と9歳の2人の娘を連れて。
どんな思いで焼け跡の大阪に立ったのでしょうか。
食べるだけで必死な中、商売を少しずつ広げました。
2代目として婿養子に入ったのが同郷出身の父。
養子という立場もあってか、父は堅実で分を守りました。
慎重すぎるほど慎重で大きな投資は避け、身を粉にして働きました。
石油ショックのころに大きな経営危機があったものの、その真面目さと堅実さで商売をつないでくれました。
そんな父も病で62歳の生涯を閉じています。
後を継いだ3代目の私にとって第1の「原点」はこの歴史にあります。
働き者だった先代や先々代、とくに祖父を焚き付けてでも大阪へ出て来た商売人気質の祖母。
そして真面目過ぎるほど真面目だった父。
それら祖先の苦労を無にしてはならない、という思いです。
父が死の病に取りつかれたと知ってあわてて帰郷した私。
父と仕事が出来たのはわずか1年でした。
30歳で3代目を継いだ私ですが、父が不在の中で当時の社員さんが支えてくれたおかげで、会社を守ることが出来ました。
その社員さんたちも次々に定年を迎え、父を知るのはもうベテランのAさんと姉の中上さんだけ。
あとの11人は私が迎えています。
だから、私を信じて入社してくれた社員の皆さんが将来定年を迎えるときにも会社が健全な状態で存続していること。
これが最も大事なことです。
会社とは放っておけばつぶれるもの。
起業後10年で残っている会社は2割ほど、次の10年でさらに2割ほどに減り、30年続く会社は数パーセント。
百年続く会社は1%をはるかに下回ります。
絶対に存続し続けること。
これが私の大きな「思いの原点」です。
「中小企業と屏風は広げると倒れる」と言われます。
だから人数を増やすことには慎重です。
社員「1人当たり」の数字を重視しているのもこのためです。
1人当たり自己資本、1人当たり粗利、1人当たり経常利益を増やすこと。
すると「給料は高く、人件費は低い」会社が実現します。
一人ひとりは潤い、会社は強くなる。
長く続く会社になる道です。
少数になると精鋭化せざるを得ない。
成長シートを通じて社員一人ひとりの出来る業務を広げることを目指すのも「強い会社」を作る王道だと信じるからです。
そしてもう1つの思いの原点。
それは「質へのこだわり」と言えましょう。
なぜそうなのか。
それは私が3代目を継いだ直後のあるエピソードが切っ掛けです。
今月は紙幅が尽きました。
次月以降、また詳述したいと思います。
今月もお読みくださり、ありがとうございました。
2017年3月24日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三