九条(当社工場)での例会開催 = 大阪府中小企業家同友会西支部

工場での例会開催、しかもパネルディスカッションで、という極めて珍しい例会でしたが、50人ほどの参加者をお迎えし、成功裏に終わりました。

この異例の試みを発案し、そして数々の困難を乗り越えて実現させてくれた同友会の仲間に感謝します。

(2017年11月27日)

 

通常の例会は「人」(=報告者)に焦点を当てますが、今回は「地域」にスポットを当てました。九条にゆかりのある5人の経営者が、それぞれの会社と九条とのつながりを語りました。

これを機会に九条という地域を掘り下げて調べました。ここで生まれ、ここで育ち、そしてここに戻って商売をする私。会社を創業した祖父母の歴史もたどりながら、地域と自社との深い関係をあらためて思いました。

 

パネラーの5人ともが、それぞれに九条と自社との抜き差しならぬ関係を語りました。まさに中小企業の町・九条。大都会の中心部にあってモノづくりの伝統が受け継がれている九条。この地域の独自性を深く認識した例会でした。

 

 

〔当日配布した資料から〕

 

■  ものづくりの町 大阪市西区・九条

 

【一条も二条もないのに、なぜ「九条」?】 = さまざまな説が・・・

1. もともと海の底だった大阪だが、淀川などが運んだ土砂が堆積して陸地化が進み「なにわ八十島」と言われるほど多くの島々が誕生した。その一つが「九条島」。本格的に開発したのが江戸初期の幕府役人・香西晳雲で、儒学者・林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名。「衢」は「ちまた、賑やか」を意味し、「壌」は「土地」に通じ、賑やかな場所になるように願ってつけられたとの説がある。

※ 香西晳雲 (かさい・せきうん) 江戸時代前期の治水家。 幕吏。大坂湾の海水の逆流をふせぐため、寛永元年(1624)中津川(淀川)河口に堤防を築き、四貫島などを開発した。

2. 江戸時代の貞亨元年(1684)、河村瑞賢による治水事業の一環として新堀(安治川)が開削されたが、この時に「衢(みち)を切って淀川の流れを直した」ことから「衢壊」(くじょう)の名が生まれた(『摂陽群談』より)。

3. 延宝年間(1673~81)の洪水の時に、京都の九条家の笏(しゃく)が流れ着いたことから、九条と称するようになったという説も。

その後、「九条」に変わったのは「衢壌」が難しすぎるので簡単な字になったのが真相らしい。

【明治期から戦前 = 賑わう九条】

幕末に「川口」が開港して外国人居留地となり、「江之子島」には大阪府庁が置かれた。また木津川沿いに松島新地も開かれた。この位置関係から、明治~大正~戦前にかけての九条は「西の心斎橋」と呼ばれるほど賑わった。商店は勿論、映画館、寄席なども数多くあり、商店街には百貨店も軒を連ねた。 現在の九条新道交差点(みなと通り)はかつて「花園橋」と呼ばれ、明治36年にはここから大阪築港まで大阪初の市電が運行された。

※以上、「西区役所」「ナインモール九条」などのホームページを参考に編集

 

【九条と工業の歴史】

日露戦争後に八幡製鉄所が誕生し、日本の近代鉄鋼業の幕が開けた。阪神間には数多くの工場が林立。重い鋼材は船舶で運ばれるため、水運に恵まれたこの地区で鉄鋼業が栄えた(運河の多くは戦後に埋め立てられることに)。自動車(トラック)がまだ珍しかった頃は、馬車で鋼材を運んだという(昭和30年代までは九条にも「馬小屋」があったらしい)。

【戦後】

戦争・空襲でいったんは焼け野原に。しかし戦後の高度経済成長を支える原動力として復活。鉄鋼業のさまざまな会社・工場が集まり「九条に来たら何でもそろう」鉄の町に。広く西日本を商圏とする「大店」(おおだな)が倉庫を構え、中小の町工場が数多く存在することに(地下鉄・阿波座駅かいわいの「立売堀」(いたちぼり)が商社街、そして九条が工場街という位置づけ)。やはり鉄鋼製品である「ネジ」の生産では全国一の地域です。

 

【いま、そしてこれから】

都心から近くて便利なため、工場だけでなく商店街や住宅も混在し、企業にとっては工場拡張が難題となった。そこで、戦後に埋め立てが進んだ「南港」、あるいは土地が広い「東大阪」など大阪周辺部に会社や工場が移転して行った。

バブル崩壊後の経済低迷、そして後継者難から廃業や倒産が相次いだ。企業数は減り続け、  広い工場跡地にはマンションが建ち、建て売り住宅が密集する。まさに工場と住民が共生する町、それが九条の現在の姿。しかしいまも鉄鋼業の中心地であることに変わりはありません。

 

■  坂元鋼材株式会社

昭和10年(1935年)現社長の祖父母が大阪・九条の地にやってきて始めた鉄の商売が起源。兵庫県(播州)の農家出身だったのですが「大阪に出て商売がしたい」と、先に大阪・九条に出て来て成功していた親戚を頼って来ています。戦火を避けて8年間の疎開。創業者の祖父は戦争に行き、祖母は農業に。しかし昭和24年に再び九条へ。裸一貫から商売をやり直し、まずは太丸鋼の切断販売、やがて鋼板加工に。鉄にはいろんな種類があります。鉄筋、丸鋼、型鋼(H型・L型)、パイプ、鉄板・・・。坂元鋼材は「鉄板」の専門店です。