【給料袋メッセージ200号】
毎月の給料袋メッセージが200号になりました。
なぜ書き始めたのか、何のために書いているのか、そのことを書きました。
[通算 200号]
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
この給料袋メッセージが今月で第200号となりました。
2010年4月から始めて13年7カ月です。
■ なぜ書き始めたか?
当社の歴史を振り返ります。
1999年、先代社長だった私の父が62歳で急逝しました。
当時29歳だった私は、商売も経営も知らぬまま3代目となります。
2009年、リーマンショック後の不況で会社始まって以来の大赤字。
そこで私は経営の勉強を全くしていないことに気づきました。
そのときに出会ったのが1年間かけて経営のイロハを学ぶ「なにわあきんど塾」でした。
毎週1回の講義はどれも新鮮で、40歳を過ぎて初めて知ることばかり。
私は10年間ずっと「無免許運転」で経営していた、という空恐ろしさを覚えました。
その最終講義(2010年3月)に出てこられたのが
お好み焼き「千房」の中井政嗣社長(現在は会長)。
町の小さなお好み焼き屋からスタートして
全国チェーンに育てられた、大阪の名物社長です。
企業発展の原動力となったのが人材の採用・育成だったとおっしゃいました。
「良い人材は大企業に行ってしまう。
だから我々は来てくれた人に感謝して人材に育てなければならない」
「比べず、あせらず、あきらめず」
「中小企業は教育産業です」
中井氏は「給料袋の手紙」を毎月書き、社員にメッセージしていました。
すでに20年ほど続いていました。
会社の目指す方向性、大切にしたい考え方、社員への感謝を書き綴られていました。
「良いことはマネでもいいから続けなさい。続けると本物になる」
「でけへん人ほど、やりなさい」
「うそでもええから、やってみる」
「建前を実行する。実行を本音とする」
「心にもないことをする。そこに心が乗ってゆく」
その話を聞いた翌月から、私も書き始めました。
■ 自分自身の思考をまとめる
まずは会社の方向性・ビジョンを書きました。
そして社員の皆さんの働きがあってこそ会社が成り立っていることへの感謝を伝えました。
会社始まって以来の大赤字の直後です。
「どんな不況にもビクともしない強い会社をつくりたい」
という切実な願望がありました。
社内が一致団結して助け合う社風が何としても必要でした。
毎月1回のメッセージは、私が学んだことをアウトプットする場でもありました。
「なにわあきんど塾」は1年間で修了です。
経営の学びに味をしめた私はその後、
中小企業家同友会・アチーブメント・木村塾などに傾倒していきます。
そこで学んだこと、考えたことを書き綴りました。
自分自身の思考をまとめるのにとても役立ちました。
■ 文章で心がけたこと
13年前に始めた時に思ったのは、
「私の母が読んでも理解できる文章」を書くことでした。
母は学校時代に勉強が出来た方ではまったくありません。
本もほとんど読まない。そんな母でも理解できる文章を心がけました。
というのも、当時は先代社長の頃からずっと勤めてくれている
ベテラン社員さんが何人もいらっしゃったからです。
中学を出てから何十年も、勉強めいたことから遠ざかっている。
現場の仕事は立派でも、読書の習慣があるわけではない。
そんな社員さんに分かってもらう必要がありました。
60号を超えたあたりの頃でした。
「今月書いた文章です」とFacebookにアップしてみました。
すると経営をともに学ぶ友人たちが好意的に反応してくれました。
文章を丁寧に読んでくださり、いろんな見解を教えてくださったり、
励ましてくださったり。
のちに「社長ブログ」として会社のホームページにも納めるようになりました。
すると取引先や銀行さんなどが読んでくださいます。
対外的にオープンにするのは相応の緊張感がありますが、いろんな覚悟ができました。
■ 書き残す意味
この文章を書き続けていくうちに、新たな意味が生まれました。
私のまさに拙い経営体験記ですが、
その葛藤と試行錯誤のプロセスが会社の歴史として残ります。
それが未来の会社にとって貴重なものになると予感しています。
父は61歳の検診で膵臓ガンが判明します。
名古屋で新聞記者をしていた私は家庭(家業)の一大事ということで、
慌ただしく大阪に帰ってきます。
父のガンは手術で取り切れず。
翌年、この世を去りました。
私が父と一緒に働いたのは1年にも満たない時間でした。
父がいなくなったとき、私の姉(上の姉)がこういいました。
「ああ、これでお父さんの経験を正三に伝えることが出来なくなった」
そうです。
未熟極まりない29歳の私が会社を任されたにもかかわらず、
父のアドバイスがもらえなくなったということです。
■ 父の死とともに消えたもの
父は郷里(兵庫県)の高校を18歳で出て、
大阪・道修町の薬問屋に住み込みで勤めます。
23歳の時に坂元家の婿養子に入り、それから鉄の仕事一筋です。
37歳のときに石油ショック(1974年)。
最も大口だった取引先が倒産し、当社は巨額の不渡りをこうむります。
父はそのタイミングで社長になっています。
真面目を絵に描いたような父は懸命に働いて家業を立て直しました。
バブル崩壊後の苦境も乗り越えました。
しかし、1999年に62歳で他界します。
父の25年に渡る社長としての経営経験、
40年近い鋼材業の実務経験、
62年の人生航路。
そこからもたらされた哲学や信条、蓄積された知識や知恵、そして判断軸。
そのすべてが父の死とともに消えてしまった。
姉が言いたかったのは、それでした。
父が書き残したものは、ほとんどありません。
残された私たちは、もはや記憶を頼りに父の考えを振り返ることしかできません。
■ 父の記憶をたどって
経営者としても鉄屋としても駆け出しだった私です。
父に聞きたいことは山ほどありました。
お客さんからお叱りを受けたとき。
お客さんが当社から離れていったとき。
社員さんとうまくいかなかったとき。
社内がまとまらなかったとき。
大きな設備投資のチャンスが巡ってきたとき。
将来の決断に迷ったとき。
父ならどう考え、どう判断しただろうか。
困ったときほど、父の意見を聞きたくなりました。
しかし、いません。
よりどころとなる記憶も、わずかです。
「納期だけは何が何でも守れ」
「仕入れ過ぎると、支払いがえらいぞ(きついぞ)」
「こんな小さな会社でも社員の家族を入れたら50人以上が飯を食っている」
「わしが死んだら1億円の生命保険が入る。それでがんばれ」
新聞記者を志した私に好き勝手を許してくれた父。
会社が儲かっても決して贅沢をしなかった父。
設備投資にも極めて慎重だった父。
そのような父の生きざまから類推するしかありませんでした。
■ 試行錯誤のプロセスを残す
石油ショックと巨額の不渡りのタイミングで父が社長交代したように、
私もバブル崩壊後と父不在という逆境からスタートしました。
それからは悪戦苦闘の日々。
無知ゆえの判断ミス、短期的な思考による損失、自らの至らなさゆえの浅はかな行為。
まさに枚挙にいとまがないほどの失敗を重ねました。
しかし失敗とは麻疹(はしか)や水疱瘡(みずぼうそう)のようなもので、
一度なってしまえば次は罹りにくくなる。
失敗を教訓として少しずつ賢くなれる。
だからこそ失敗の歴史・悩んだこと・苦しんだことを書き綴りました。
そして上手くいったこと・成功したことも。
その双方をきちんと文章で残しておくこと。
それが、この会社の次の経営を担う人物、そして会社全体にとっての「資産」になります。
■ もう一つのライフワーク
私が前職の時事通信社を28歳で辞したときのことです。
家業に戻らねばならない、しかしジャーナリズムの仕事には未練がある。
そのとき会社の大先輩(梅本浩志記者)は、迷える私に言いました。
「日本のマスコミ記者に欠けているのは『生活の実態』である。
坂元君が中小企業経営の実際に身を置き、そこで考えたことを書けば大きな価値がある」
サラリーマン記者として客観的に文章を書くということと、
そうではなく経営の当事者として葛藤の中から文章を書くこと。
その違いを梅本記者は言及されたのでした。
この言葉には本当に励まされました。
そして師と仰いだ萩原遼氏(北朝鮮研究の第一人者・元赤旗平壌特派員)は17年前、
私の結婚式でつぎのような祝辞をくださいました。
「経営と文筆の二足の草鞋(わらじ)を履きなさい。
西武の堤清二が経営者でありながらも作家・詩人としての志を失わなかったように」
尊敬する2人の大ジャーナリストからいただいた言葉は、私の人生の宝です。
このような魂が震えるレベルでの出会いをいただけたこと、
それも父の許しで人生の寄り道をしたおかげでした。
極めて個人的なことも書きましたが、200号という節目に免じてお許しください。
これからも経営を盤石にし続け、社員が生活の拠り所とし、
お客様に貢献できる会社づくりを進めていきます。
よろしくお願いいたします。
2023年11月24日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三