【あなたは何によって憶えられたいか?】
給料袋のメッセージです。
今月は20代初めの若者にお話をさせていただきました。
普段とは勝手が違う勉強会。55歳のいまだから語れることです。
[通算224号]
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
今月は阪南大学の学生さんに向けて「経営実践講座」を1コマ担当させていただきました。
中小企業家同友会からの推薦で、今年で2回目。
学生は2-4回生(おおむね19-22歳)です。
私とは年齢差30以上。
まるで学生時代の私にタイムスリップしたような感覚でした。
■ 人生は有限
20歳そこそこの学生たちに55歳の私がメッセージ出来ることは何か。
いまハッキリと言えることは、
人生の目的・目標を明確にすることが大事だということです。
授業の冒頭に、有名な一文を紹介しました。
フランスの文学者ロマン・ロランの言葉とされるものです。
「人生に往復切符はありません。
ひとたび出立したら、再び元に戻ってくることはないのです」
若い時は、まるで時間は無限にあるように思いがちです。
私がそうでした。
20代はおろか、30代、あるいは40代でも、
そんな感覚が抜けませんでした。
しかし50代にもなると、人生に往復切符などはありえず
「すっかり半分以上が過ぎた」とまさに実感します。
私もすでに祖父母と父を見送りました。
お世話になったたくさんの諸先輩方も鬼籍に入られました。
学生時代の友人たちが若くして他界し、
あるいは自分よりも年下の親友が早世することもありました。
人生は有限――。
この言葉をしみじみ実感します。
■ 生きた証
そんな一度きりの人生、生きた証をどう残すべきか。
授業の冒頭でもう一つの言葉を紹介しました。
経営学者のドラッカーが13歳の時に牧師から問われた有名な言葉です。
「あなたは何によって憶えられたいか?」
そう問われたドラッカー少年は、何も答えられませんでした。
牧師が続けました。
「あなた方はまだ13歳だから答えられなくてもよい。
ただし50歳になってもこの問いに答えられなければ、
人生を無駄に過ごしたことになる」
■ 紆余曲折だった若き日
私は坂元鋼材という町工場を営む家に長男として生まれました。
いずれは3代目を継ぐものと、子供のころから薄々と感じていました。
しかし高校時代に数々の社会問題に出くわし、
ジャーナリストを目指したことは常々よく書いていることです。
高校1年のときにバーンスタインの広島平和コンサートを聴いたこと、
その数日後に起きた日航123便墜落事故(事件)。
高校2年のときのチェルノブイリ原発事故。
高校3年では大韓航空機爆破事件。
大学に入ると天安門事件やソ連崩壊など、
次々に起こる社会問題、世界情勢に目を奪われる日々。
こうした問題を追及する記者になることを夢見ました。
親不孝にも「工場は継がない」と父に言い放ち、東京に出ていきました。
就職した時事通信社では名刺一枚でいろんな人から話を聞けるという
得難い体験をさせてもらいました。
一方、たまの休みに大阪に帰ると、
バブル崩壊後すっかり儲からなくなった商売を一生懸命にやっている父がいます。
私は自分だけの夢を追っている、そう内省するようになりました。
■ 私にしかできない仕事
そんなとき、父が「すい臓がん」という報せが大阪から入りました。
5年生存率は10%。家業を継ぐことを決意しました。
人生で最も大きな選択でした。
そのときジャーナリスト・萩原遼さん(元・赤旗ピョンヤン特派員)
の言葉が決断を後押ししてくれました。
――――――――――
自分が心の底から訴えたいこと、
いわずにおれないことしか人びとの胸には響かない
ということも体験で理解している。
訴えたいことがなければみだりにペンを用いるべきではない
と私は自分にいいきかせている。
そのさいは、自分のできる労働で生活の資を得て
市井人として生きればよいのだ。
(「朝鮮戦争・取材ノート」=かもがわ出版)
――――――――――
時事通信社に入って数年たち、
記者を続けるか家業に入るべきか悩んでいた私にとって、
この言葉は決定的でした。
生活のために書くこと、そして心の底から訴えたいから書くこと、
それらは同じではない。
時事通信の仕事も尊いが、それは私でなくともよい。
私には私にしかできない「家業の後継ぎ」という仕事がある。
私は29歳になろうとしていました。
■ 我流経営で行き詰る
父は手術後1年持ちませんでした。
このタイミングで帰郷したからこそ、
1年弱でしたが一緒に働くことが出来ました。
最後の最後に親孝行のまねごとができた気がします。
父にわがままを許され、好き勝手をしました。
もはや記者という職業に未練はありません。
家業に没頭しました。
しかし没頭したからと言って、
それだけで成功するほど経営は甘くありません。
一生懸命に仕事をしたけれど、残念ながら素人の我流経営でした。
景気が良い時は黒字、景気が悪いと途端に赤字。
人が定着せず一体感のない社内。
決定打がリーマンショック直後の大赤字でした。
30歳で3代目になってから10年が過ぎていました。
すでに40歳になっていた私は、
ここから経営の学びに没入しました。
私に欠けていたのは知識や学びでした。
自動車を運転するのにクルマのメカニズムを知らず、
交通法規も分からない。
まるで無免許運転していたようなものです。
もっと言えば「行き先」もわからずに運転していたのです。
それも社員とその家族を乗せて。
まさに大事故の寸前でした。
■ 正しい方向性を持った努力は必ず報われる
社外で学ぶことは新鮮でした。
それまでの10年間、なぜ私が失敗したのかが良く分かりました。
アチーブメントの青木仁志先生からは人生の目的を明確にし、
一貫性を持って生きることを教えられました。
人生理念(大切にしたい価値観・信条)を明らかにし、
人生ビジョンを鮮明に描くことを求められました。
木村塾の故・木村勝男会長からは、
バランスシート(貸借対照表)を重視して
会社の土台を強固にすることの大切さ(BS経営)を教えられました。
大失敗をして、ようやく大事なことに気づけました。
教えを実践していくと、会社も人生も徐々に好転していきました。
ゴルフの練習でも、楽器の稽古でも同じです。
優秀なコーチについて正しい努力を重ねてこそ上達するものです。
経営も同じでした。
自己流ではやればやるほど下手が固定する。
結果、大赤字の翌年からは15年連続の黒字となり、
バランスシートは見違えるように好転しました。
おかげで金融機関からの高評価を得て、
今回の8億円の新工場計画が可能になりました。
■ 人生の目的
家業に戻る決断を後押ししてくれたジャーナリストの萩原遼さんとは
その後、大阪で知遇を得ました。
そして萩原さんのライフワークである
北朝鮮民主化の活動を手伝わせていただきました。
日本と朝鮮半島を結ぶ架け橋であり、当代一流の論客。
そして行動する真のジャーナリストでした。
それなのにまったく偉ぶることのない、気さくで温かなご人格でした。
私が37歳で結婚した時、
萩原さんは披露宴で次のような祝辞をくださいました。
「坂元さんを鉄鋼業界に持っていかれたのは
ジャーナリズム業界の損失である。
経営者であり作家でもあった西武の堤清二(辻井喬)のように
二足の草鞋を履きなさい」
まさに身に余るお言葉、感無量でした。
若き日の私はペンの力で世の中を良くしたいと夢想しました。
いまは実業の世界でそれを成し遂げたいと思っています。
坂元鋼材を「日本を代表する超一流の中小企業」にする。
そのことをもって、あまたの中小企業で構成される日本社会に
「経営の成功法則」を普及する。
そうして後世から憶えられる存在となります。
■ ぐるぐる回る伝書鳩
かつて伝書鳩というのがありました。
インターネットはおろか電話すらなかった時代、
遠く離れた場所へ情報を届けるためにハトの足に文書をくくりつけ、
目的地に飛ばしました。
ハトの「帰巣本能」を利用したもので、
ときには数百キロもの距離を飛んで帰ります。
その歴史は古代ローマ時代にまでさかのぼり、
最初は軍事情報の伝達に使われたようです。
ビジネスでも利用され、例えば19世紀のロイター通信は
ハトを使って各国の株価やニュース速報を運んだと言われています。
その伝書鳩は「さあ、飛べ!」と空に放つと、
上空をぐるぐると旋回するのです。
戻るべき巣の位置を割り出そうと、
太陽や地形や地磁気などの情報を読みます。
そして進むべき方角を探し当てると、
目的地に向けて矢のように飛びます。
思えば坂元鋼材に帰ってきた28歳までの私は
「どう生きるのか」という方向性をぐるぐると探していたように思います。
そして30歳で3代目を継いでから我流経営で道に迷い、
40歳からの学びでは「なぜ経営するのか」を問い続けました。
私という伝書鳩は大きく2回の旋回をへて、
人生と経営の目的を求め続けたように思います。
■ 学生たちに感謝
90分間の授業は、私にとってはあっという間でした。
60名ほどの学生たちは反応こそおとなしかったものの、
午後一番の授業なのに居眠りすることもなく熱心に聞いてくれました。
感謝ばかりです。
20歳そこそこの学生たち。
おそらくは伝書鳩のように人生の方向性を探している時期のはず。
これからの就職活動、そして人生の岐路に出会ったとき、
私の拙い話を思い出してくれるでしょうか。
今月もお読みいただき、ありがとうございました。
2025年6月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三