【人生最大のリスクは、挑戦しないこと】
きょうは25日、給料袋メッセージを書きました。
新工場・新設備の計画は私にとって過去最大のチャレンジ。
その決断を下した背景を、深掘りしました。
[通算222号]
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
1935年(昭和10年)創業の当社にとって、今年は90周年となる節目の年です。
この4月から新年度(第74期)がスタートし、新工場(第4工場)も着工しました。
新年度を迎えるにあたっての抱負を綴ります。
■ 経営者は判断力で飯を食っている
今年の第4工場、そして来年以降の第5工場の計画がいよいよ走り始めました。
土地・建物・レーザー加工機、合わせて8億円規模の投資になります。
当社の年商はまだ5億円弱であり、売り上げ規模を超える大型投資です。
約2年前のこと。顧問税理士の先生は「借入過多である」と
計画に難色を示されました。
その当時の投資予定額は6億円でしたが、それでも賛同を得られません。
悩みました、この投資に踏み切るかどうか――。
「経営者は判断力で飯を食っている」とは
青木仁志・アチーブメント社長の言葉です。
決断することがトップの仕事であり、トップにしかできない仕事です。
その組織が発展するか、衰退するか、大きな分かれ道です。
迷ったときの判断軸として、
青木社長の講座で教えていただくのは
3つの視点です(長期的、本質的、客観的)。
ここから計画を洗いなおしました。
■ 長期的視点:
100年永続企業に向けた超長期の投資
私が経営者になって26年、たくさんの会社が倒産・廃業していく一方、
勢いよく伸びる会社も目にしました。
その違いの一つは「時代の変化に対応したかどうか」でした。
必要な設備投資・組織づくり・人材育成をしなければ企業は生き残れない。
数多くの栄枯盛衰を見て、そう学びました。
レーザー初号機(2008年導入)の老朽化対策としても、
新型レーザーは必須です。
逆に、このタイミングで入れておかねば将来の安定生産に支障をきたします。
レーザー加工機の進化はまさに日進月歩で、驚くばかりです。
いまや30ミリ厚や40ミリ厚までも楽々と切断します。
ほんの5年前でも考えられなかったことです。
最新鋭の設備で社会の要請に応えること。
時代の変化に合わせた設備導入は欠かせません。
今回の計画は8億円規模になるものの、
超長期(20年)の借り入れであり、年間返済額は4000万円。
実際にリーマンショック以後の15年間は、
年間3000万円を超えるキャッシュフローを生んできました。
今回の設備投資で会社は更に強くなる。利益も増やせる。
努力目標として最適なゾーンではないでしょうか。
新工場と新レーザー導入は、将来に向けた未来投資です。
■ 本質的視点:
我々の仕事はさらに伸びる
日本経済は過去30年にわたって長期低迷し、
少子化とともに今後の経済の行方も不透明です。
粗鋼生産量はかつての年間1億2000万トンから8000万トン規模に縮小し、
さらに5000万トンへ向かうとも予測されています。
しかし、それでも鉄鋼は社会を根本から支える基礎素材であり、
これからも求められ続けます。
何よりも高度成長時代に造られたインフラが老朽化し、
各地で悲鳴を上げています。
さまざまな痛ましい事故も記憶に鮮明です。
それらのリプレース需要に応えるのも鉄鋼です。
さらに、ここが重要です。
過去30年間に日本経済は下降曲線を描きましたが、
当社は反比例して上昇曲線を描きました(とくにこの15年間)。
我々の業界シェアはまだまだ小さい。
大手業者とは、すでに市場の多くを占有しつくしたから大手なのです。
我々は「伸びしろ」がいくらでもある。小さいがゆえの強みです。
■ 客観的視点:
銀行や社会からの評価、強化した財務がバックアップ
まずは銀行の評価です。政府系2行、地方銀行2行、信用金庫1行、
それら取引先5行すべてが計画を理解し、
長期での支援をくださっていることが非常に心強い。
過去15年間の蓄積で自己資本額が4億円を超えたこと。
そして先代・先々代が確保してくれた
土地による担保力(低い簿価で含み益があること)。
それらがバックアップしてくれています。
帝国データバンクの高評価も支えです。
かつてリーマンショック直後に45点まで下がったものの、
いまは59点まで伸びました。
全企業でトップ2%の水準です。
社会的な信用力を積み上げることで、
金融機関から常にご支援を頂ける会社であり続けます。
■ 異論に感謝
税務顧問の先生に賛意を得られず、当初は戸惑いました。
しかし、おかげで冷静かつ綿密に計画を見直し、財務も更に勉強できました。
再検討の結果、工程を見直しました。
2工場を一度に着工するのではなく、今年は第4工場、
来年(以降)に第5工場と、時期を分けました。
万が一のリスクに備えたスケジューリングです。
反対意見を頂けたからこそ、冷静になれたと思います。
警戒心を高め、多角的に見つめました。
何のためにやるのかを問い直し、覚悟も固めました。
13年間も顧問として当社を見てくださった先生のご意見です。
厳しくも貴重な異論を頂けたことに感謝しています。
より強い会社を作ることで、これまでのご恩に報います。
■ 良いBSが経営者の自信を育む
それにしても、この大きな決断を支えてくれたのが
15年間に貯めた自己資本でした。
2009年(リーマンショック直後)に5000万円(10%)
だった自己資本額が4億円を超えたこと。
これが自信になりました。
リーマンショックによる経営への大打撃。
そのとき、
「どんな不況にもビクともしない強い会社」
を作りたいと渇望しました。
鉄鋼業界はとくに景気の波に左右されます。
どんな事態でも生き残る会社、
安心して働いてもらえる会社を作ることが願望でした。
そのために「返さなくてよい自分のお金」(自己資本)
を貯めることを目標としました。
良い仕事を重ねて利益を出し、法人税を1円でも多く払うこと。
そうして内部留保を貯めました。
良いBS(バランスシート)こそが経営者の自信の源であり、
それは社員の明日を守る砦です。
■ やってみなわからん、やったことしかのこらん
BS重視の経営を教えてくれたのが
故・木村勝男会長(木村塾BS経営研究所)でした。
木村会長は郷里の島根県から1957年(昭和32年)、17歳で来阪。
裸一貫からスタートしたそのビジネス人生は、
常にチャレンジの連続でした。
不動産を営むご自身がバブル崩壊で逆境を経験したからこそ、
自己資本の重要性に気づかれました。
そして晩年は全国の中小企業経営者にBS経営の本質を説き続かれました。
・ 厚い自己資本を持っていながら、
なぜチャレンジしない?
挑戦する勇気を持て!
借金ではない、「資金調達」と言え!
・ 自己資本「比率」は高すぎてもアカン。
業種にもよるが20%でいい。
高すぎる自己資本比率は安住を生む。
それでは「逆境」という先生がついてこない。
ホームドラマではない、
大河ドラマの人生を生きよ!
・ 日本はカネを使える経営者が少ない。
ヒト・モノ・カネを活かすのが起業家。
2代目でも3代目でも、
カタチを変える人は起業家。
起業家がおらんから経済が衰退する。
皆さんは起業家になってや!
・ 金活や!
拾うたり、親からもらったり、
宝くじで当たったりしたんではアカン。
苦労して増やす。
カネを増やす過程に葛藤がある。
乗り越えると自信になる。
自信はどこにも売っていない、
阪急百貨店にも売っていない。
そうハッパを掛けられ続けました。
木村会長が世を去ってもうすぐ8年ですが、
いまも隣にいて叱咤激励されているような感覚です。
木村会長のBS経営塾、
その最後の6年間に学んだことが今になって皮膚感覚で理解できます。
29歳から始まった私のビジネス人生は、いま55歳。
すでに26年が経ちました。
少なくとも82歳までは現役の予定です(第100期)。
いまがほぼ折り返し地点です。
年輪のようにじっくりとBSを良くし続け、次世代にバトンタッチします。
■ チャレンジの先の未来を信じる
そして判断力の源は、理念・ビジョンにあります。
大切にしたい価値観であり、こうありたいという理想の未来像です。
当社のフィロソフィーに「挑戦」を入れたのも、
ともすると安易な道を選びがちな自分自身に対して轡(くつわ)をはめるためです。
過去を振り返っても、チャレンジの連続でした。
26年前に父が急逝したとき、素人の私(29歳)
が経営者になったのがそもそもの挑戦でした。
あの三重苦(バブル崩壊、父不在、未経験)を考えると、
当時の方がリスクははるかに大きかった。
経営者となって3年目(32歳)、
初代プラズマ加工機を導入したのもチャレンジでした。
まだ赤字基調だった当時、
5000万円の設備投資は大きな賭けでした。
そのプラズマの成功が支えとなり、
その6年後(38歳)には隣地に新工場を建て、
レーザー初号機を導入。
合計3億円の設備投資でした。
その直後、リーマンショックで過去最大の大赤字に瀕します。
その逆境がバネとなって経営を学び、
その後15年の改革となりました。
5000万円の投資の成功が3億円の投資を可能とし、
その克服がこんどは8億円の投資を可能としました。
人生とは自分の限界を突破していく旅とも思えます。
■ 悔いなき人生を生ききる
病院で終末期の医療に従事した人の言葉です。
死を前にした人々は人生を振り返って
「やらなかった後悔」を嘆くそうです。
「やって失敗したことよりも、
やらなかったことの方が後悔として残る」
というのです。
安心、安全、安定はとても尊いもの。
しかし同時に、限界突破には人生の喜びがあります。
昨日の自分を今日は超える。
その生き方の中に充実がある。
55年間生きてきて、そう思います。
ちょうど90年前に祖父(26歳)・祖母(19歳)が
郷里の播州から大阪に裸一貫でやってきて
鉄の商売を始めたのも、チャレンジだったはず。
終戦後、焼け野原の大阪に再び戻ったのも、
大きな挑戦だったに違いない。
先祖が果敢にも冒険してくださったおかげで、
会社が築かれました。
そう考えると
「人生最大のリスクは、挑戦しないこと」とも言えます。
人生は一度限りです。
リスクにおびえて安易な道を選ぶなら、
必ずや「あの時やっておけばよかった」と悔やむ日がくるでしょう。
私たちは「挑戦する会社」です。変わり続け、挑み続け、進み続けます。
今年度もぜひ皆さんの力を最大限にお貸しください。
ともに納得のゆくビジネス人生を送ってまいりましょう。
2025年4月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三