会社ホームページの新調にともない、「沿革」欄に使えそうな古い写真を探しました。
すると、創業者である坂元正二・はる(私の祖父・祖母)の珍しいツーショット写真が。
戦後の大阪(九条)に戻って来て裸一貫からの再スタート。がむしゃらに働いて会社設立、そして土地を買って家を建て(兼社屋)、一段落ついた1955年(昭和30年)ごろの写真でしょうか。
祖父母が立っているのが材料置場(まだ天井がなく、簡単なクレーンがあるのみ)。
後ろにあるのが家屋。その後に私もここで生まれ育ったので、とても懐かしい。
祖父は1908年(明治42年)生まれで1998年に他界(享年90)。
祖母は1916年(大正5年)生まれで、2010年に他界(享年94)。
ともに大往生でした。
3年前に祖母が他界したときに書いた文章があります。祖父母の創業のころからを振り返ったものです。ここに再掲して、創業者を偲びたいと思います。
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祖母は大正5年に生まれ、満94歳の大往生でした。坂元鋼材の創業者は祖父と祖母です。
郷里の播州 (兵庫県宍粟市山崎町)から出てきたのが昭和10年。
なぜ田舎から大阪に出てきたのか。農家の長男だった祖父の立場を考えれば不思議なことです。二人は大阪で鉄の商売をしていた親戚を頼って出てきています。深川家で、いまの株式会社新興商会さんです。祖父は深川家から鉄の商いを習い始めます。祖父26歳、祖母19歳、ほとんど新婚です。
朝も薄暗いうちから働き、「曲がった鉄を買うてきて、まっすぐに伸ばしたら高く売れた」。そんな商売から始めたといいます。太平洋戦争が勃発する昭和16年まで商売し、そして戦火を逃れて疎開。田舎では8年間暮らします。
祖父が兵隊に取られている間、祖母は慣れない農作業です。しかし祖母にはその農家暮らしがどうしても馴染めなかった。いやだった。昔の農家ゆえの「嫁いびり」も酷かった。もともと負けん気が強く、勝ち気で商売好きだった祖母は、どちらかといえばおっとりした性格の祖父を焚きつけるように大阪へ出てきたようです。
「失敗して貧乏してもええ。大阪に出て商売がしたい」。祖母の一念でした。まだまだ終戦直後で貧しかった昭和24年。農家で自分たちが耕した田んぼだったが「一粒の米も持たせてもらえんかった」。祖父40歳、祖母33歳。娘二人(11歳、9歳)を連れて再び出てきた大阪は焼け跡。闇市で買った桜麦で飢えをしのいでの商売の再開でした。
貧しく厳しくとも望んで始めた商売。祖父母は懸命に打ち込みます。当時の祖父のことを祖母はよく述懐しました。「あんな肥え性がガリガリに痩せてた」。生活を切り詰め、ようやく少しの余裕ができた頃に買ったのが現在の坂元鋼材の土地(昭和26年)。いま第一工場がある敷地です。
土地は買ったものの畳を買う金が惜しく「むしろ」を敷いて暮らします。日本社会はようやく戦後復興が始まり鉄の需要が急増していました。当時、祖父母は太丸鋼を商っています。だから、いまでも昔の我が社を知る人は「坂元鋼材は丸の店」と記憶しておられます。
やがて株式会社として法人化(昭和27年、資本金250万円)。これが会社としてのスタートで第1期です(現在は62期=2013年度)。しばらくして道路を挟んだ向かい側に新しい土地を買います(昭和35年)。それが、いまのレーザー工場の敷地です。
ちょうどその頃、郷里の山崎から婿を迎えています。私の父です。当時は高度経済成長の入口です。会社は鋼鈑加工(ガス切り)にも乗り出します。商売は順調に伸び、昭和49年には隣接の土地を購入しています。現在の社屋(事務所)が建っている敷地です。
ところが、その頃のこと。当時最大の得意先だった会社が倒産。巨額の不渡りを被ります。坂元鋼材の最初の経営危機でした。この時に社長が父に代わっています。当時、父37歳、母36歳。祖父は65歳、祖母は58歳でした。
私の記憶が始まるのがこの頃から(私4歳)。子供心に覚えている父母や祖母の面影は、年がら年中、四六時中、働いている姿です。父母はつねに会社の仕事。おかげで私は祖母に育てられました。父母は夕食後も会社に出て夜中まで働きます。夕食の片づけを終えた祖母がそこに加わります。今でこそCADとプロッターがありますが、当時は父が定規とコンパスで型紙を作り、祖母がハサミで器用に切っていました。寝るのは一時か二時。
子供の私にはわからなかったのですが、巨額の負債を抱え、必死だったに違いありません。私の記憶する祖母はこのように昼は家事、晩は夜なべの仕事。それに姉(美紀)が幼少のころ長期入院していましたから、祖母は病院に日参して看病していました。だから姉にとっても祖母はかけがえのない人です。
とにかく祖母が自分のためにお金や時間を使ったりしたのを見た記憶がまったくありません。貧乏で苦しかった時代を懸命に働いて生き抜いた尊い大正人。それが祖母でした。
思えば戦後日本の復興と繁栄は、祖母のような勤勉で質素な日本人が築いてくれたものであると、あらためて思います。ですから、会社が軌道に乗り発展した時に祖母が味わった満足感や幸福感がどれほどのものだったのか、少しですが分かる気がします。
終戦直後の焼け跡で麦飯を食べながら商売に打ち込んだ祖父母のど根性。それを思えばいまの不況など、祖母が生きていればきっと笑い飛ばされるくらいのものに違いありません。
「貧乏は覚悟」「それでも商売を」。その祖母の気概が坂元鋼材の原点です。後継者として、孫として、あらためて祖母の霊に誓います。きっとこの会社を立派に受け継ぎます。