【本物は続く、続けると本物になる】
きょうは給料袋のメッセージを書きました。
この4月から会社は第70期がスタートしました。
苦労の中で会社をスタートさせてくれた創業者、そして先代のご苦労を偲びました。
30年後の百年企業を目指して進んでまいります。
[通算162号]
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
昨年度(2020年度)はひさしぶりに困難の年でした。
売上は前年度の8割。辛うじて赤字は免れましたが、リーマンショック後では最大の危機でした。
年度末の決算賞与を見送ってしまったことを、改めて申し訳なく思っております。
今期こそは旧来の利益水準を回復できるよう、経営の舵取りに一層力を入れます。
引き続きの御協力を、どうぞよろしくお願いします。
■ 戦前の大阪・九条
この4月から新しい年度が始まりました。第70期という節目です。人間にたとえると「古希」です。
当社の歴史は1935年(昭和10年)創業の「坂元商店」にさかのぼります。
創業者は私の祖父・坂元正二と祖母・坂元はる。
郷里の播州(兵庫県宍粟市山崎町)から大阪・九条に、鉄の商売をしていた親戚を頼って出てきています。
明治・大正を経て九条地区では鉄鋼を中心とする諸工業が発展していました。
なぜ大阪に出てきたのか、農家の長男だった祖父の立場を考えれば不思議なことです。
祖父26歳、祖母19歳、ほとんど新婚です。
朝も暗いうちから働き、「曲がった鉄を買うてきて、まっすぐに伸ばしたら高く売れた」。
そんな商売から始めたと祖母は回想していました。
太平洋戦争が始まる1941年まで商売し、祖父が兵役に服すために店を畳んで郷里に帰っています。
■ 創業時の苦労
それからの8年間、祖母は慣れない農作業です。
「嫁いびり」も酷かったらしい。
NHK朝ドラの名作「おしん」(その九州編)を彷彿とさせます。
勝ち気で商売好きだった祖母は、おっとりした性格の祖父を焚きつけて大阪へ戻ってきました。
「貧乏は覚悟、それでも商売がしたい」――。
だから当社の実質の創業者は祖母です。気が強く、男勝り。
まさに「おしん」そのものでした。
1949年(昭和24年)の大阪はまだ焼け野原だったようです。
闇市で買ったヤミ米や麦飯で飢えをしのいで商売の再開。
祖父40歳、祖母33歳。娘2人(11歳、9歳)。
この祖父母の長女が、私の母です。
当時のことを「食べ物がなかったあの頃を考えると、なんでも辛抱できるなあ」と母は述懐します。
その翌年(1950年)にジェーン台風が大阪を襲いました。
「膝まで水が来た」と母は言います。
飲み水に使っていた井戸がダメになり、それから水道を引いたらしい。
商売に励み、生活を切り詰め、ようやく少しの余裕ができた頃(1951年)に買ったのが現在の坂元鋼材の敷地(現・第1工場)です。
100坪ほどとはいえ、ゼロから再スタートした2年後によく土地が買えたものです。
畳を買う金が惜しく、「むしろ」を敷いて暮らしたそうです。
その翌年(1952年)、資本金250万円で「坂元鋼材株式会社」を設立しています。
これが第1期で、ここから今日まで70年の歴史が続くわけです。
当時の250万円はいまでは何倍の価値があるでしょうか。
厳しい生活の中で商売にいそしんで貯めたお金だったはず。
先祖の苦労が偲ばれます。
■ 婿が来る
戦後の復興、そして鉄鋼需要が急増します。
1960年(第9期)には道路の向かい側に新しい土地を買っています。
それがいまのレーザー工場の敷地です。
その年に郷里から婿を迎えています。
私の父(良三)です。
農家の次男だった父は、郷里の高校を卒業して大阪・道修町の薬問屋で働いていました。
そして23歳で坂元家の婿に入ります。
ときは高度経済成長の入口でした。
坂元鋼材は鋼板加工(ガス溶断)に乗り出し、順調に伸びます。
さらに1974年(第23期)には隣地を購入しています。
いま事務所が建っている場所です。
ところが、その年にピンチが訪れます。
石油ショックで世の中が不景気となり、当時最大の販売先だった会社が倒産。
手形商売のため巨額の不渡りを被ります。
当社始まって以来の経営危機でした。
この時、社長が祖父から父に代わっています。
父37歳。父も逆境の中での世代交代だったのでした。
■ 無類の働き者だった父
私の記憶が始まるのが、この前後からです(私5歳)。
子供心に覚えている父母の面影は、年がら年中、四六時中、忙しく働いている姿です。
夕食後も会社で夜中まで働きます。
夕食の片づけを終えた祖母がそこに加わります。
今でこそCADとプロッターがありますが、当時は父が定規とコンパスで型紙を作り、祖母がハサミで器用に切っていました。
寝るのは深夜1時か2時。朝は8時から仕事です。
父は几帳面な性格でした。
婿養子としての立場をいつも意識していたのでしょう、真面目すぎるほど真面目でした。
そして会社を堅実に経営し続けました。
その父も社長在任25年目だった1999年に急病で他界します(享年62)。
そして私が29歳で3代目社長を継ぎました。
父は死んで私に3代目というステージを与えてくれたわけです。
それが第48期。ここから皆さんが段々と知る現在の坂元鋼材になります。
■ 失敗の10年、そして改革の12年
父が病気になって、私はあわてて大阪に帰ってきました。
鉄も経営も、何もわからなかった。素人がいきなり社長になった。
振り返れば、この時こそが当社最大の経営危機でした。
それから10年、私は素人経営を続けます。
恥ずかしながら経営に原理原則や定石があるのを知らなかった。
決算書もろくに読めず、何を目指したらいいのかもわからなかった。
だから景気が悪くなると右往左往です。
父をよく知るベテラン社員さんたちが助けてくれたものの、私が採用した社員はあまり定着せず。
組織はバラバラでした。
最も苦しんだのが2008年のリーマンショックです。
翌2009年(第58期)に会社始まって以来の大赤字に瀕しました。
「景気が良くても悪くてもビクともしない会社にしたい!」――。そう切実に願いました。
そのタイミングで出会ったのが「なにわあきんど塾」です。
それから中小企業家同友会、アチーブメント、木村塾、成長塾などを学び続けます。
社外で教わったことを社内で実践する経営改革が始まりました。
皆さんの良く知る最近の当社の姿です。
■ 強くて良い会社をつくる
この経営改革12年間に力を入れ続けたのが、つぎの4本柱でした。
① 理念浸透
② 人材採用と社員育成
③ 社風(人間関係)を良くする取り組み
④ 新規開拓営業
その結果、リーマンショック直後に厳しかった財務状況(自己資本5000万円、自己資本比率10%、社員12人)が徐々に改善。
コロナ禍直前に安定しました(自己資本3億円、自己資本比率70%、社員15人)。
リーマンショック後に願ったこと、すなわち
「どんな事態があろうともビクともしない強い会社になる」というビジョンに着実に近づきつつあります。
財務の改善もさることながら、人が育ったのがさらに嬉しいことです。
新卒や若い社員が成長し、直近7年間の離職は実質ゼロ。
毎年毎年、チームの年輪をしっかりと刻んでいます。
私が経営を預かった22年間ではまさに「今が一番よい」と言える状態です。
■ ここからがスタート
駆け足で70年間を振り返りました。
70年かけて、ようやくスタートラインに立った気がします。
日本には300万社以上の企業があります。規模の小さな当社としては、いろんな面で他社と比較しがちです。
しかし比べるのは「過去の自社」です。
中身がどれだけ充実しているか。それを追求し続けます。
中身とは何か。
対顧客では、お客様から「ありがとう」をどれだけ頂戴できるか。
対社員では、皆さんから「働いてよかった」とどれだけ思ってもらえるか。
対社会では、この小さな会社がどれだけの存在価値をもたらすことができるか。
究極はこの3つ。だからライバルは同業他社ではない。
「ありがとう」頂戴プロジェクトであり、「働きがい」追求の旅です。
そして30年後の第100期に向けて会社を磨き続けること。
「百年企業は日本の宝、二百年企業は世界の宝」です。
かつて木村塾(BS経営研究所)の故・木村勝男会長は、こんな言葉を残しました。
「成功はホッケースティックのような形をしてやってくる」
成果は努力に正比例して右上一直線に伸びるのではない。
じっくりと、あたかも底辺を這うような時期がある。
しかし右上に角度をつけて伸び始めるや、「スパン!」と急こう配に抜けていく。
まるで、ホッケースティックの形のように。
これから第80期(2031年)に向けて成功の角度がグッと上がっていく。
そんな予感がしてなりません。
その先に第90期(2041年)、そして第100期(2051年)があります。
10年後、20年後、30年後、皆さんは何歳になっているでしょうか。
それぞれの年齢で、どんな人生ビジョン、職業ビジョンを描いているでしょうか。
私は61歳、71歳、81歳です。個人と企業のビジョンを明確に描き、その通りに進みます。
ともに力を合わせて、強くて良い会社を作ってまいりましょう。
第70期も、どうぞよろしくお願いいたします。
2021年4月23日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三