父を見送って25年、経営者になって25年 [給料袋メッセージ 210]

【父を見送って25年、経営者になって25年】

 

きょうは父の25回目の命日。

父の残してくれた確かなもの、そして多くの人に支えられて今があります。

感謝をつづりました。

[通算 210号]

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

いつも社業への貢献、ありがとうございます。

きょうは夏季賞与の日ですが、それは父の命日(7月6日)にいつも重なります。

今回も父の記憶を重ねながら書いてみます。

 

■ 若い学生たちに接して

 

昨日、阪南大学の授業を一コマ担当させてもらいました。

中小企業家同友会からの出張講座で学生たちを相手に中小企業経営の実際を話しました。

 

20歳-22歳くらいの学生たちです。まるで30年以上前の自分に相対しているようでした。

 

振り返ると学生時代の私はまったく好き勝手に生きていました。

会社の3代目を期待されて生を受けましたが、高校のころから別の願望が育ってきました。

 

米ソ冷戦を背景にした当時の世界情勢に興味津々な少年でした。

 

高校1年のとき(1985年8月)、原爆投下40年目の広島で行われた

バーンスタインのヒロシマ平和コンサートを聴いていたく感動。

 

この時に初めて原爆資料館を訪れて、社会問題への関心が高じていきました。

 

思えば、この広島40年の数日後に日航123便墜落「事件」も起こっています。

高校2年の時にチェルノブイリ原発事故。

高校3年の時に朝日新聞襲撃事件や大韓航空機爆破事件。

 

異様な世相をみて「将来は新聞記者になる」という願望が高まりました。

 

■ 寄り道を許してくれた父

 

大学を出てから中国に2年間の留学。

さらに勝手にマスコミを受験して就職を決めてきた私を、
父はとがめませんでした。

それどころか中国留学、東京・名古屋での新聞記者時代を通じて
ずっと応援してくれました。

 

坂元家に婿養子として入って2代目社長を継いだ父の立場に立てば、

父の最大の願望は私が3代目を継ぐことです。

 

それなのに私は反原発だ、反核だ、東アジアだ――。

そんな訳の分からないことを言って好き勝手に生きている。

よく私のわがままを許したものです。

 

1990年代半ばから後半にかけてのころ。

勤務先だった東京・名古屋からたまに大阪に帰省します。

バブル崩壊後すっかり儲からなくなった商売を父は懸命に続けていました。

 

このころ父母の郷里(兵庫県・山崎町)に法事で行くことがありました。

車のハンドルを私が握っています。助手席の父がポツリと言いました。

 

「こんな風に会社も運転してくれたらなあ」――。

 

これは効きました。

それから間もなく、父がすい臓がんになったとの報せが入ります。

ジャーナリズムの仕事に未練はある、たっぷりある。

けれどもここで帰らなければ一生後悔する。

 

新聞記者という職業に対する願望よりも、父に対する願望の方が勝りました。

 

■ 3重苦のスタート

 

会社に入って最初の仕事は挨拶回りでした。

「息子が帰ってきました」ーー。

そう得意先を一緒に回ったときの父の嬉しそうな顔が忘れられません。

 

父は手術の甲斐なく翌年に他界します。

 

1999年、バブル崩壊後の不景気が最も極まったころでした。

経営者の急逝、後継者は素人。

まさに3重苦でのスタートでした。

 

私が大阪に帰ってから父がなくなるまでの1年弱、

父は鬼の形相で仕事を仕込んでくれました。

 

振り返ると父から教えられたのは、工場で鉄板を切る実務が一番多かった。

 

けれども父が不在になって本当に困ったのは営業であり、

社員さんとの関わり方であり、あるいは会社の方向性などでした。

 

経営者は決断するのが仕事。

「父だったらどうしただろうか」と幾度も思いました。

 

■ 人生の目的

 

父が不在になってからの十年間、我流経営で会社は迷走します。

 

2009年、リーマンショック直後に大赤字を出したのが転機となり、
さまざまな経営の学びに出会います。

 

「何のために、誰のために、なぜ生きているのですか?」

アチーブメントの青木仁志先生に問われたことが、すべての起点でした。

 

 

「親父は何のために生きてきたのか?」――。

 

振り返ると、

「こんな小さな会社でも社員の家族を入れたら五十人が飯を食っている」

と言った父の言葉が思い出されました。

 

社員とその家族の人生に責任を持った父の姿。

そして子供である私に好きな人生を歩ませてくれたこと。

すなわち周りを幸せにすることが父の人生の目的だった、そう気づきました。

 

だから私も職業を通じて「縁ある人に豊かさを感じてもらう人生を送ること」――。

それが目的です。

 

▲青木仁志先生と(2011年6月)

 

■ 人生の目標

 

その目的に叶う目標設定(期限・数値)をどうすべきか。

その時に故・木村勝男会長(木村塾BS経営研究所)の教えが刺さりました。

 

それが「社員1人当たりの自己資本額」であり、

私が82歳の時に迎える会社の第100期(百年企業)です。

 

 

 

そのためにはバランスシートを重視して経営し、

社員1人当たりの自己資本額を伸ばし続けること。

 

それが絶対につぶれない経営にする最良のモノサシでした。

 

2011年に木村会長に出会ったとき、

その数字は400万円ほどでした。

14年後のいまは2500万円を超えました。

 

父は62歳で他界しています。

しかし私は健康に留意し、なにがなんでも82歳までは現役を通し、

百年企業をこの目で見届けること。それが人生の目標となりました。

 

■ 与えられた環境はすべて最高で最善

 

木村会長ご自身は、私などよりももっと若い(幼い)ときに
父親と別れています。

 

「わしが14歳の時に親父が死んだ。

家族を食わせるために学校を辞めた。

逆境の始まりだった。親父の死んだ歳の37歳になった時、親父に感謝できた。

親父は死んでわしにステージを与えてくれた」

 

「自分が与えられた環境はすべて最高で最善。

己の原点を100%肯定する、幸せはそこから始まる。

感謝の大きさと幸せの大きさは比例する」

 

私が父と別れたのは29歳のときです。

十分に大人になるまで人生を伴走していただきました。

新聞記者という遠回りもさせていただきました。

 

譲り受けた坂元鋼材は当時赤字だったとはいえ、

父の遺した生命保険金を勘案すると実質無借金でした。

祖父母が戦後に購入した会社の敷地は簿価が極めて低く、

担保余力も大きかった。

財務的に盤石な会社を残してもらえました。

 

そして、父を慕う会社思いの社員さんたちがいました。

 

それらが初心者マークの経営者だった29歳の私を支えてくれました。

なんとありがたい環境で経営者としてスタートできたのか。

 

 

■ 中小企業経営者という天職

 

父がいなくなってから幾つもの壁にぶち当たりました。

それを乗り越えるごとに、鍛えられました。

 

木村会長の言葉が、いつもしみじみと響きます。

 

「親からカネをもらっても力はつけへん。

自分で稼いでカネを貯める、資産運用する、その過程で力がつく。

『金活』や。相続や、拾うたり、宝クジやない。

稼ぐ過程に葛藤があり、葛藤の中で鍛えられる」

 

「給料を支払う側と、もらう側。どっちの苦労が大きい? 

しかし苦労イコール不幸ではない。

苦労は自分を磨くんや。苦労は自分を成長させるんや」

 

「経営は学問したからできるんやないで。

『経営学』は学ぶことも教えることもできるけど、

『経営』は学ぶことも教えることもでけへん。

何かをやったら壁に当たる。

資金繰り、お客、従業員、いろんな問題が出てくる。

次から次に出てくる。それが先生や」

 

中小企業経営者は最高の天職です。

まさに父は死んで私にステージを用意してくれました。

 

与えられた環境を活かし、自分の努力と才覚次第でどんな結果も作ることが出来る。

この道に、心から感謝です。

 

▲在りし日の木村勝男会長と
(2015年12月)

 

■ 父を見送って25年

 

父が他界したとき29歳だった私も54歳。

 

経営者としても25年の経験を積みました。

82歳までの現役を目指していますから、あと27年。ほぼ折り返しです。

 

プライベートでは37歳で結婚し、41歳で長女、46歳で長男を授かりました。

48歳のときに生駒に自宅を作り、父が郷里に作ったお墓を
生駒のお寺に持って帰りました。

人生の宿題を一つ一つ片付けています。

 

 

 

子供たちとの散歩コースに祖父母と父が眠っています。

最高のパワースポットです。

長女(12歳)はたまに、長男(7歳)はしょっちゅう散歩にくっついてきます。

 

長男はダジャレ好きでひょうきんな性格をしており、父とよく似ています。

父も人を笑わせるのが大好きでした。

「良三おじいちゃんに、会いたかったなー」とよく言ってくれます。

しんみりとします。

 

父は25年前にいなくなったけれども、
その想いは会社と家庭に残り続けています。

 

■ 恩送り

 

父が他界した62歳という年齢に、私も近づいてきました。

次世代への事業承継のために持ち株会社(HD)を作りました。

それも長期ビジョンに基づいたものです。

 

長女か、長男か、どちらかが経営者となって会社を継ぐでしょうか。

あるいは若い時の私のように、まったく違う願望に従うでしょうか。

 

いずれにせよオーナーとして株式をしっかりと管理し、

会社を強くし続けることで社員の人生を守り、

そして縁ある人を幸せにできる人間に育ってほしい。

その決意の純粋なものが、後継者です。

 

25年前のこと。

父の社葬で葬儀委員長を務めてくださったのが
小林鋼材(当時)の小林廣重社長。

その言葉を思い出します。

 

「あなたがお父さんから受けた恩を、
将来生まれてくるあなたの子供さんに返しなさい」

 

父から受け継いだたくさんのものを、次世代にしっかりと送ります。

父さん、ありがとう。

 

2024年7月5日

坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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