経営とは責任を全うすること [給料袋メッセージ 165]

【経営とは責任を全うすること】

 

きょうは夏季賞与の支給日。先代社長を偲んで書きました。
私も白い骨になって土に還るまで、責任を全うし、使命を果たします。
[通算165号]

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

夏季賞与は先代社長だった父の命日(7月6日)の時期です。
あれから22年、歳月の過ぎる速さを思います。
もう父を直接知る社員は私と姉だけになりました。

 

■ 娘婿として頑張った父

 

創業者だった祖父母、そして父の出身地は播州です(兵庫県宍粟市山崎町)。祖父母は戦前の大阪に出てきて鉄の商売を始めました。

 

子供が娘二人だったので、のちに故郷から婿養子を取りました。それが私の父・坂元良三です。

 

父は23歳で坂元鋼材に入社(1960年)。会社は順調に成長したものの、石油ショック後に最大の取引先が倒産して経営危機に陥りました。父は37歳、そのタイミングで祖父から社長を交代しています(1974年)。

 

ピンチに際して経営を任された父。婿としての重圧も相当だったはず。
何を考え、どのようにして会社を立て直したのか。聴きたいことは山ほどあります。

 

時代は下り、祖父は88歳で大往生(1997年)。

 

父はその時、祖父の生家があった場所に立派なお墓を作りました。婿養子としての大きな務めを果たしました。

 

この直後に父は重い病をわずらい、足早にこの世を去っていきました。享年62、だれもが思いもよらない早さでした(1999年)。

 

それから22年になります。

 

実は、お墓にはまだ祖父しか入っていません。父の遺骨は大阪の仏壇の前にまだ置いたままです。

 

■ ようやく、父を埋葬します

 

4年前、私は奈良県生駒市に自宅を作りました。その近所に古いお寺と墓地があります。父の作ったお墓をそこに移すことにしました。

 

郷里の山崎は大阪から車で2時間ほどとはいえ、なかなか通えない。母は毎年お参りに行っていますが、私自身は数年に一度という無精者でした。

 

ところが近所のお寺は自宅から歩いて5分ほど、子どもたちとの週末の散歩コースです。

 

生駒に来てから「ここにお墓があれば、いつでも先祖に触れることができる」との思いが募ったという次第です。

 

この日曜日に播州の郷里へ行き、お性根抜きをしていただきました。秋口までには移転が終わる予定です。ようやく父を埋葬してあげれます。

 

22年前、急にいなくなった父が不憫でもありましたが、父にもう少しそばにいてもらいたかった。

 

周囲から「早く土に還すように」というアドバイスもいただきましたが、結局はやりすごしました。

 

息子としての感傷というよりも、経営者として父に相談したかったことが山ほどあったからです。経営に際して心のよりどころでした。

 

■ 経営者の覚悟

 

長男の私は会社の後継者として期待されていたにもかかわらず、20代のほとんどは大阪を離れて会社から目をそらしていました。

 

父の重病がわかって初めて、私は帰阪を決めました。1998年の夏、私は29歳ちかくになっていました。

 

その秋に開腹手術をしたものの病巣は取り切れず。もともと痩せ型だった父がさらに細くなりました。

 

父は鬼の形相で私に商売を仕込みました。自分の残り時間を計っていたようで、土日もありませんでした。

 

翌1999年の6月末に最後の入院。腹水でお腹だけが膨らみ、誰の目にも最期が近いとわかりました。

 

7月に入ったばかりのころ、社員の皆さんに病室まで来てもらいました。

 

「そろそろボーナスを出さなあかん時期やのにな・・・」

 

それが父のお別れの言葉でした。

 

そして7月6日に他界。その直前に枕もとで私にこう言っています。

 

「わしが死んだら会社に1億円の生命保険が入る、それで頑張れ」

 

当時の有利子負債がちょうどそれくらいありました。経営を託すにはあまりにも未熟な私です。せめて借金くらいは身軽にしてバトンタッチしたいという父の思いでした。

 

この言葉から「経営とは体を張ってするもんだ」という覚悟を教えられました。

 

■ 父に聴きたかったこと

 

それから私は数々の壁にぶち当たりました。

 

販売不振、安値競争、赤字、取引先の倒産、設備投資での迷い、採用の失敗、社内不和、労働問題など枚挙にいとまがありません。

 

考えてみると会社の方向性(理念とビジョン)、そして人にまつわる悩みがほとんどでした。

 

私には確たる定見がなかった。だから出現しつづける問題に右往左往していました。父ならなんと判断しただろうか。聴きたいことが山のようにありました。

 

「お父さんの記憶も経験も消えてしまった。正三に受け継がせられない」

 

これは父の葬儀が終わったころ、上の姉が言ったことばです。

 

18歳から大阪・道修町の薬問屋に住み込みで働き、23歳から坂元鋼材で鉄の商いをし、37歳から62歳まで25年間の経営人生でした。その経験を受け継ぐことができなくなった。もっともっと、在りし日に聴いておくべきでした。

 

■ 慎重の上にも慎重だった父

 

父が他界して3年後のこと(2002年)、私は大型設備を導入しました。プラズマ加工機(ツイスター)で、会社始まって以来の投資規模でした。

 

この時に父を良く知る古参のベテラン社員さんは「あんたのお父さんなら買わんかったやろし、買えんかったやろうな」と言いました。

 

父は石橋を叩いても、なかなか渡ろうとしないような極めて慎重な性格でした。創業者夫婦である祖父母とずっと一緒にいる婿養子。大胆な投資は何度もためらったようです。

 

父の代で最大の設備投資だったNC溶断機の時は「もし失敗したら」との危惧から、まずレール長6メートルで導入し、その成功を見届けた後に倍の12メートルに拡張したほどでした。

 

「絶対に失敗は許されない」というプレッシャーは人一倍だったのでしょう。

 

■ 自由気ままだった私

 

一方、私は極めて自由な立場でした。父の不在はつらかったのですが、私はフリーハンドで経営できました。

 

2002年のプラズマの後は、2004年の隣地購入、2008年の新工場・レーザー導入と次々に拡張しました。すべて借金で、有利子負債は年商を超える規模になりました。父なら到底ありえない経営判断でした。

 

その直後にリーマンショック、鉄鋼相場の大暴落、会社始まって以来の大赤字。自己資本は父から受け継いだ額を割り込み、自己資本比率は10%以下にまで落ち込みます。

 

私の経営判断は蛮勇というよりも、決算書(とくにBS)が読めていなかったための甘い見通しによるものでした。

 

あらためて父の時代の決算書を見てみました。1974年の石油ショック後に社長就任、その後なんと4年連続で赤字を計上しています。父も経営者として船出した時は相当に厳しかったようです。

 

それからは順調に利益を重ね、会社の屋台骨を強くし続けてくれました。
同業他社に比べて規模こそ大きくはありませんが、37歳から62歳までの25年間、堅実に商売を守り抜いてくれたのです。

 

■ こんな小さな会社でもな・・・

 

さて、私の経営ストーリーに戻ります。

 

経営に行き詰った私は、社外に飛び出して数々の学びに顔を出しました。
「何のため、誰のため、なぜ経営をしていますか?」と問われました。経営理念、すなわち経営の目的です。

 

何のためだろう、誰のためだろう。

 

その問いを掘り下げていったとき、私が「会社を継がずに新聞記者になる」と言い放っていた学生時代、父がポツリと言った言葉を思い出しました。

 

「こんな小さな会社でもな、社員の家族を入れたら50人以上が飯を食っている」
これは経営理念を考える最も太い柱になりました。

 

父の部屋には経営書はほとんどありませんでしたし、外部のセミナーで経営を学んだという話も聞いたことがありません。しかしこの言葉は、父の立派な経営理念です。

 

家族まで含めると社員数の3-4倍になる。それだけの人の人生が会社には掛かっている。

 

父は短い言葉の裏に、そんな意味を込めたのでした。

 

父の人生は社長として、婿養子として、そして父親として、与えられた責任をとことん背負い切った極めて真面目な人生でした。

 

「経営とは責任を全うすること」

 

父の生きざまから、そう教えられる思いです。

 

■ 人は死ねば骨になる

 

日曜日に郷里のお墓で性根抜きをし、祖父の骨壺を取り出しました。24年前にお別れした時と同じ、鮮やかに白い骨でした。

 

祖父母がこの地から大阪へ出立し、苦労の中から鉄の商売を始めてくれました。そして父母が経営のバトンを守り抜いてくれました。

 

私もいずれ白い骨になり、生駒の寺に入ります。

 

それまでに与えられた使命を全うします。何が何でもよい経営をし、会社を発展させます。

 

2021年7月2日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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