創業者の祖母・満100歳、感謝! [給料袋メッセージ 86]

【創業者の祖母・満100歳、感謝!】

 

きょうは25日。月給袋の文章を書きました(通巻86号)。
我が社の創業者である祖母がちょうど満100歳(生きておれば)。
祖母の人生、そして我が社の来歴を振り返りました。
あらためて、祖母に育ててもらったことに感謝しました。
おばあちゃん、ありがとう。

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
 
今月、業界紙の日本金属通信さんが「坂元鋼材の『始末する』精神、脈々と」という記事を書いてくれました。

 

始末する、とは「処分する」という意味でよく使われますが、第二義として「節約する」「モノを大事に使う」という意味があります(関西だけかもしれませんが)。苦労人だった私の祖母・坂元はるの口癖だった言葉です。

 

祖母は1916年(大正5年)3月13日生まれ。5年前に他界しましたが、生きておれば今月で満100歳です。そのタイミングで祖母を思い出させる記事を載せていただいたこと、本当に奇遇に思います。

 

思えば、生前の祖母を知る社員も糸井さん、荒川さん、中上さんの3人だけでしょうか。祖母のことを知らない世代が多くなってきたので、かつての月給文章で書いた中身と重複しますが、祖母の一生を振り返り、我が社のルーツをたどってみます。

 

祖母は播州(兵庫県宍粟市山崎町)の生まれで、農家の長男だった祖父(坂元正二)に嫁いでいます。しかし、どういうわけか二人で田舎を飛び出して大阪へ。1935年(昭和10年)、祖父26歳、祖母19歳。ほとんど新婚早々です。農家の長男だった祖父の立場を考えると不思議なことです。大阪で鉄の商いをしていた親戚(深川家)を頼って、落ち着いたのは九条の街でした。朝も薄暗いうちから働き、「曲がった鉄を買うてきて、まっすぐに伸ばしたら高く売れた」。そんな商売から始めたらしい。

 

やがて太平洋戦争が勃発。1941年まで商売し、戦火を逃れて疎開。田舎では8年間暮らします。その間、祖父が兵隊に取られ、祖母は慣れない農作業。しかし「町の子」だった祖母は、農家暮らしにどうしても馴染めませんでした。「嫁いびり」も酷かった。

 

負けん気が強く商売好きだった祖母は、おっとりした性格の祖父を焚きつけるように再び大阪へ出てきました。「失敗して貧乏してもええ。大阪に出て商売がしたい」。祖母の一念でした。まだまだ終戦直後で貧しかった1949年。農家で自分たちが耕した田んぼだったのに「一粒の米も持たせてもらえんかった」。祖父40歳、祖母33歳。娘二人(11歳、9歳)を連れて再び出てきた大阪は焼け跡。闇市で買った麦飯で飢えをしのいでの商売の再開でした。

 

貧しく厳しくとも、望んで始めた商売。祖父母は必死です。当時の祖父のことを「あんな肥え性がガリガリに痩せてた」と祖母はよく述懐しました。後年の肉付きのいい祖父しか知らない私には、想像もできないことです。

 

生活を切り詰め、ようやく少しの余裕ができた頃(1951年)に買ったのが現在の坂元鋼材の土地。いま第1工場(ガス、プラズマ)がある敷地です。底地は買ったものの、その上に敷く畳を買う金が惜しく「むしろ」を敷いて暮らしたそうです。

 

日本社会はようやく戦後復興が始まり鉄の需要が増えていました。当時、祖父母は太丸鋼を商っています。だから、いまでも昔の我が社を知る人は「坂元鋼材は丸鋼の店」と記憶しておられます。やがて株式会社として法人化(1952年)。これが会社としてのスタートで第1期です(現在は64期)。

 

 

しばらくして道路を挟んだ向かい側に新しい土地を買います(1960年)。それが、いまのレーザー工場の敷地です。ちょうどその頃、郷里の山崎から婿を迎えています。私の父です。当時は高度経済成長の入口でした。この頃に会社は鋼鈑加工(ガス切り)に乗り出します。

 

商売は順調に伸び、1974年には隣接の土地(いまの事務所のある敷地)を購入しています。ところが、その頃のこと。当時最大の得意先だった会社(浪速商事)が倒産。巨額の不渡りを被ります。大きな経営危機でした。この時に社長が私の父に代わっています。当時、父37歳、母36歳。祖父は65歳、祖母は58歳でした。

 

私の記憶が始まるのがこの頃です(私4歳)。子供心に覚えている父母や祖母の面影は、年がら年中、四六時中、働いている姿です。父母はつねに会社の仕事。だから私は祖母に育てられました。夕食後も会社に出て夜中まで働きます。夕食の片づけを終えた祖母がそこに加わります。今でこそCADとプロッターがありますが、当時は父(社長)が定規とコンパスで型紙を作り、祖母がハサミで器用に切っていました。寝るのは1時か2時。子供の私にはわからなかったのですが、巨額の負債を抱え、必死だったに違いありません。

 

私の記憶する祖母はこのように昼は家事、夜は夜なべの仕事。それに姉の美紀が幼少のころ長期入院していましたから、祖母は病院に日参して看病していました。倹約家で、お金を貯めても自分だけのためには一切消費しない祖母。趣味も娯楽らしきものもなく、着るもの食べるものも、ずっと粗末でした。商売の成功と家族の幸せだけが祖母の喜びであり楽しみだったように思います。

 

働き者で「始末家」だった祖母に育てられたことは、自分の財産です。思えば戦後日本の復興と繁栄は、祖母のような勤勉で質素な日本人が築いてくれたものであると、あらためて思います。

 

81年前、二人の若夫婦が大阪で始めた細々とした商売が我が社の原点。質素にそして懸命に生きた祖母に感謝します。

 

2016年3月25日
  坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

 

 

▲ おそらく1942年(昭和17年)ごろ。大阪での商売を一旦たたんで郷里に帰ったものの、祖父は出征。その記念写真を実家で撮ったもの。中央に出征間際の祖父。立っている女の子は私の母。祖母は次女をおんぶ。両脇は祖父の両親。この出征の頃、祖父は33歳ごろのはず。幼い二人の娘を置いて出征したのだと思うと、胸に迫るものがあります。そして、夫が戦地に赴き、幼い娘二人を抱えて嫁ぎ先の農家で過ごすことになった祖母の身の上も、感慨深いものです。