思いの原点 その①(続き) [給料袋メッセージ 106]

【思いの原点 その1(続き)】
きょうは夏季賞与の支給日、賞与袋メッセージを書きました。また、きょうは先代社長の18回目の命日でもあります。父を偲んで書きました。
(通算106号)

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

きょうは夏季賞与の支給日です。社員の皆さんの働きのおかげで、好業績を重ねています。振り返って昨年度(2016年度=第65期)は経常利益●●●●万円と、過去最高を更新することが出来ました。今期もおおむね順調に進んでいます。かつてリーマンショック後に大きな赤字を出しましたが、その後は7期連続の増益で財務状態も過去最高です。ありがたいことです。

 

また、きょうは先代社長(私の父)の18回目の命日でもあります。生きておれば80歳です。病魔にさえ襲われなければ、いまの会社のよい状態を見ていただけたのではないかと思うと、ちょっとさみしい気持ちもします。

 

さて、今年3月の月給袋メッセージでは旅館「加賀屋」の話を書きました。なぜ加賀屋が「日本一の旅館」と称されるほどにまでなったのか、その「思いの原点」とは何か。加賀屋の小田社長によると、それは「過去の失敗」だったとのこと。かつて、お出迎えに遅れてしまったお客さまを宿にお連れすると部屋の灰皿に吸殻が一本残っており、お客さまがカンカンに怒った。「一番小さな旅館なのに、出迎えは遅刻するし、掃除も行き届いていない。こんな旅館に泊まれるか!」と怒鳴られたエピソードです。また「部屋が古い」とお客様からお叱りを受け、奥様である女将がおわんのふたを投げつけられたことも。これらに発奮して、小田氏は設備投資を続け、おもてなしのクオリティを磨き続けました。これが加賀屋を日本一にした原動力、すなわち「思いの原点」でした。

 

坂元鋼材にとっての思いの原点は何か。

 

それは「会社を存続させ続ける」ということが、その一つです。それは父の生涯からも見て取れます。
父は1937年(昭和12年)、兵庫県宍粟市山崎町の生まれ。高校を卒業後、1955年(昭和30年)に大阪・道修町の薬問屋に奉公に出ています。そして23歳の時に私の母と結婚、坂元家の養子となり、同時に坂元鋼材に入っています。生前の父を知る誰もが口をそろえるように、絵に描いたような真面目。それは生来の几帳面な性格にくわえて、おそらく婿養子としての立場もあったのだと思います。

 

坂元鋼材は私の祖父母(私の母の父母)が戦前、同じ兵庫県の山崎から大阪・九条に出て鉄の商いをしたのが起源です。戦災を逃れて8年間の疎開、そして戦後に商売を再開。1952年(昭和27年)に会社設立ですので、父が入ったときは第8期で、まだ太丸鋼の切断が主力でした。戦後の高度経済成長の波に乗って、商売は順調に発展していました。

 

ところが1973年(昭和48年)の第1次石油ショックの頃、大きな危機を迎えます。当時最大の得意先だった「N商事」が倒産し、巨額の貸し倒れが発生しました。私も長じてから、大きな経営危機だったと、父や祖母からよく聞かされました。最近、当時の決算書を引っ張り出して数字を確認してみました。すると、その頃の売上高が約3億円。N商事からの負債総額は2010万円です。いまの貨幣価値ならその数倍でしょうか。父が几帳面にその頃の手形や裁判所の資料などを残しており、それを見ると配当金はわずか185万円だったようです。

 

その翌年である1974年(昭和49年)、父は祖父から社長交代しています。37歳。ちなみに私は5歳で、もの心こそついていたものの、大きな苦境の中で会社経営を任された父の心境など知るよしも無い幼児でした。私や姉らの知る父の姿は、朝早くから夜遅く、本当に夜中まで一心不乱に仕事をする姿です。人の何倍も働いた、そんな父でした。

 

しかし、父の気持ちも察せず、やがて私は新聞記者を志します。大学生の頃、そんな私に父はこう言っています。

 

「こんな小さな会社でもな、社員の家族を入れたら五十人がメシ食ってるんやぞ」

 

近年話題の「日本で一番大切にしたい会社」という書籍で法政大学の坂本光司教授は次のように言っています。

 

会社とは「人を幸せにするため」に存在するもので、その人とは次の5人であると。

 

① 社員とその家族
② 取引先企業さん
③ お客様
④ 地域社会
⑤ 株主
(そしてこの順番で大切にしてゆくこと)

 

経営の目的を説いたものです。父は恐らくセミナーや書籍などで経営を勉強したのではないでしょうが、日々の生活と仕事の中から経営の本質を見抜いていたのだと、しみじみ思います。

 

一方で私はその後、父の期待に背きます。大学を出ると大阪を離れ、中国へ行き、そして東京・名古屋で新聞記者生活を送りました。しかし1998年、父はガンを患います。それを知って私はようやくの帰郷、それまでの親不孝を詫びました。手術してもガンは取りきれず、翌1999年の夏、父は最後の入院になります。亡くなる数日前のこと、病室で父は私に言いました。

 

「わしが死んだら1億円の生命保険が会社に入る。それでがんばれ」

 

父62歳の夏でした。

 

折しも金融不安の真っ最中。初心者マークでいきなり社長を継いだ私のことを、父はずいぶん心配したはずです。当時の社員さんが一生懸命に私を支えてくれ、お客さまにも恵まれました。その後の18年間も波乱万丈でしたが、最近の様子をみて父も少しは安心してくれているでしょうか。

 

裸一貫で郷里を出て商売を始めた祖父母。大きな不渡り直後に経営をバトンタッチした父、そして父の急逝を受けて跡を継いだ私。いずれも共通するのは「スタートが逆境」ということでしょうか。だから「会社を存続させ続ける」ということが我が社の思いの原点です。

 

経営とは「継栄」。どんな事態になっても継続して栄える会社にすること。父の命日に当たり、そのことに改めて思いを致します。

 

2017年7月6日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

▲ 父母が結婚した頃(昭和35年)

 

▲昭和30年ごろ?

 

▲昭和30年ごろ?

 

▲ 祖母・坂元はる(創業者)

 

▲ 晩年の父 (台湾旅行にて)