【中国の経済発展から思うこと】
きょうは25日、給料袋のメッセージを書きました。
10月に北京と天津を訪れました。ほぼ毎年見続けた中国は驚くべき急速な経済発展を成し遂げました。一方で経済が地盤沈下する日本。働き方改革のことを絡めて考えてみました。
[通算141号]
■■■■■■■■■■
社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
先月、中小企業家同友会の訪中団に参加して北京と天津に行ってきました。訪中団に私が初めて参加したのは2009年。それから11年間で7回目の参加です。さらに別件で3回の訪中。ほぼ毎年に近いペースで中国を観察し、訪問場所は違えども中国経済の急成長を肌で感じてきました。
不在中もしっかりと会社を守っていただき、あらためて感謝いたします。
■ 私の知っていた「昔の中国」
学生時代、私が初めて中国を訪れたのは1991年(平成2年)でした。友人と2人で上海、北京、ハルビン、南京、蘇州を3週間かけて回りました。
当時の中国は、民主化を求める学生たちを人民解放軍が蹂躙した天安門事件から2年目。改革開放政策が始まったころで、まさに発展途上国そのもの。平均賃金は日本円で月額4000円と言われていました。首都の北京駅ですら駅構内で寝泊まりする中国人でごった返し、非常に不気味でした。列車の切符を買うにも長蛇の列、しかも割り込み、飛び交う怒号・・・。
「一体この国はどうなっているのか?」というのが正直な感想でした。
一方で天安門事件のあった1989年(平成元年)、日本はバブル経済が真っ盛り。思えば、このころが日中の経済格差が極限まで開いた時期でした。
私はその後、1993年から94年にかけて吉林省の長春市に2年間留学しています。
古くさびれた街並み、低迷する経済、そして政治的にも自由のない人民たち。大変な社会でした。
▲1993年ごろの北京天安門にて。留学先でのルームメートの韓国人・金俊淵と。
▲今回の訪中団にて(2019年の北京天安門)
■ 急成長した中国
ときを経て同友会の訪中団に初めて参加した2009年、やはり似た感想をひきずっていました。前年に北京オリンピックが開催され、労働者の賃金は日本円で月額2-4万円と言われていました。
この年には上海の新空港(浦東)、リニアモーターカー、林立する超高層ビル群を見ています。しかし「巨大な中国、その『ごく一部』が豊かになったのだ」――。そう思い込む自分がいました。
ほぼ毎年中国を見続けた私、その意識が大きく変わったのが2015年の訪中団(廈門)でした。中国は訪れるたびに高層ビルが増えている。そして「マンションは一室100平米が普通で、日本円で1億円クラスはザラ」と聞いたとき、自分自身の経済感覚に置き換えて驚きました。
「まさか、あの中国が・・・」
街並みも極めて立派になり、もはや台湾や韓国と変わらない。
労働者の賃金は都市住民では8万円以上と聞きました。しかし、それ以上に不動産が高騰したため「資産バブル」による裕福さを享受していたのでした。
このころ、かつて私の留学時代に親しくしていた中国人が大阪に旅行に来てくれ、久しぶりに杯を重ねました。山東省の貧しい農村出身だったという彼が、外資系自動車メーカー(仏プジョー)で大出世していました。
刻苦勉励の果てに30代にして東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)と内蒙古エリアの営業統括として大成功。「投資用マンションは5戸持っている」と豪語していました。美しい奥様を帯同して来日したその姿は、まさに自信満々。あの粗末な学生寮にいた彼と同一人物だとは、にわかには信じられない思いでした。
■ 中国はもはや非常に豊か、日本はすでに貧乏
そして決定的だったのが昨年2018年の訪中団(大連)でした。大連に進出して25年になる日本人経営者は「中国はもはや非常に豊か。日本はすでに貧乏」と喝破されました。
「だからインバウンド(訪日旅行客)があれだけ大阪に『買い漁り』に来る。むかし日本人が東南アジアなんかに買い物に出かけて『安い、安い』と言っていた。いま中国人が日本に来てそうしている。GDPは2010年に日本を追い抜き、もう2.5倍差になっている。ビジネス上は周回遅れ、後ろが見えない状態。『かつて文革で失敗して30—40年だけ日本にリードを許したけど、もう一生負けないよ』という感じだ」――。
今年の北京、天津でも経済の発展ぶりには目を見開かれました。
北京は26年前の留学時代に夏休みの3カ月間住んで良く知っているつもりでしたが、もはや別世界でした。林立する高層ビル、縦横無尽に張り巡らされる高速道路網。そして地下鉄は私がいた当時は確か2路線だけでしたが、いまや23路線となり輸送人員数は世界一。街を走るクルマはベンツ、アウディ、BMW、レクサスなど高級車が目白押し。人々の様子ももはや日本や韓国・台湾となんら変わらない。
この30年間(ちょうど平成30年間)に日中の経済的立場は逆転しました。日本経済は「失われた20年」いや「30年」と言われるほど長期低迷。国際的にみても国民一人当たりのGDPは26位という痛ましいデータがあるほどです(1988年は世界第2位)。
インバウンドの中国人たちの金遣いをみても、中国の都市住民の豊かさは一般的な日本人よりも上のような気がします。
■ 経済発展を支えた働き方
この急速な経済発展を支えたのが中国人の猛烈な働き方だと思います。
訪中団でよくご一緒する先輩経営者・樋爪伸二社長(タカラ産業)は、1990年代初頭に中国・蘇州に進出してプラスチック製造工場をゼロから作り、やがて300人規模にまで育て上げました。
その樋爪社長は中国人の働きぶりこのように言っています。
「農村からの出稼ぎ工員たちは貧しい生活を耐えて働き、貯金して故郷に仕送りしている。レンガとドアで作ったベッドで寝ていたほどだ。まさにハングリー精神。昼食の弁当を半分持ち帰り、残りを晩に食べる。飯を食うため、生きるために懸命だ」
樋爪さんの中国工場をかつての訪中団で2度見学しました。まさに小説やドラマで知る「昭和初期の紡績工場もかくや」と思わせるように、工員たちは一心不乱に働いていました。
ひるがえって、日本の経済発展を支えてくださった先輩世代もよく働いたものです。私はNHKドラマの「おしん」が好きで数年に一度は見返しています。今年は再放送もあって楽しませてもらっています。あの世界を考えると、明治、大正、昭和の先輩世代は本当によく働き、日本を豊かに形作ってくださいました。
■ 職業以上に自分を磨くものはない
私の経営の師であるアチーブメントの青木仁志社長は次のようなことをおっしゃっています。
「パナソニック創業者の松下幸之助さんは小学校を4年で出てから丁稚奉公、朝5時から夜11時まで働きづめだった。いまなら児童虐待に問われかねないが、そのような働き方の中から不世出の経営の神様が生まれた」
丁稚奉公といっても若い世代にはピンとこないでしょうし、私も古いドラマや映画で知るだけですが、住込みで朝から晩まで働き、賃金は高くないものの礼儀作法や商売のイロハを含めて仕事全般を仕込まれ、のれん分けなどで独立することも可能だったようです。
鉄鋼業界でも中卒や高卒で「大店(おおだな)」に丁稚のような立場で入り、そして独立して会社を興された社長さんが何人もおられます。若い時に仕込まれた働く姿勢、気配りの心、商売のコツなどがその後の経営を支えたはずです。
アチーブメントの青木社長ご自身もまた桁外れの働きぶりでした。二十歳ごろに一度独立して失敗し、大きな借金を背負います。それを返すために飛び込んだフルコミッション(完全歩合制)の世界で頭角を現します。休む暇もなく正月も営業に走っておられます。その筋金入りの働き方の末に、創業したアチーブメントを業界最高クラスの企業にまで育てられました。
青木社長は「職業以上に自分を磨くものはない」と断言されています。まさに至言です。
■ 豊かに育てられたら困難
私のもう一人の師・木村塾の故木村勝男会長もまた同様です。
14歳で父親をなくしてから家族6人を支えるために身を粉にして働きました。故郷の島根県では中学を2年で辞めて働きづめに働き、18歳で大阪に出てからは土木作業員を振り出しにガス工事業を始め、そして生涯に30以上のビジネスを手掛けています。家族を養うために必死。「メシを食う力をつけろ!」が口癖でした。
木村会長は「貧乏に生まれたほうが成功しやすい。豊かに育てられたら実はそれが困難」とおっしゃていました。恵まれない境遇だから豊かになる「必要」がある。そこに求める心が生まれる。そして勤勉さ、努力する姿勢、人の気持ちを察する心などが習性になるのだと思います。
■ 先祖たちの働きに感謝
当社の歴史を振り返っても感じるものがあります。戦後の焼け野原だった大阪に舞い戻って鉄の商売を再開した祖父母たち。
朝の暗いうちから起きて「曲がった鉄を買うてきて真っ直ぐに伸ばして高く売る」という仕事から商売を始めたそうです。私の知る、とくに祖母の働き方は尋常ではありませんでしたが、それゆえに備わった人格の高さをいまにして思います。
当社の2代目を継いだ父は婿養子で坂元家に来ましたが、故郷の高校を出てから大阪の薬問屋で丁稚奉公のような時代を5年間過ごしています。父の働き方も筋金入りでした。薬問屋時代の経験が恐らく父の人格を形作ったのでしょう。
そんな先人たちの尊い労働のおかげで日本は豊かになりました。
「おしん」を見ていても思います、昔の日本は貧しかった。戦前の日本には食えない日本人があまりにも多すぎた、だから海外(北米、中南米、さらに満州など)にも移民や開拓に出ざるを得なかった。ほんの百年ほど前という近い昔の話です。
庶民が経済的に豊かになったのは1960年(昭和35年)以降のこの60年くらいではないでしょうか。しかも最近の30年間は豊かさに陰りが生じた時代。対照的に勃興した中国やアジア諸国、そんな構図をまた思い出します。
■ 鉄を通じて社会を支える
私自身も豊かさの中に育ちました。私の生まれた1969年(昭和44年)、もはや日本は経済的に安定し、祖父母や父母たちの経営するこの会社も軌道に乗っていました。何不自由なく育てていただき、周りの環境にずいぶん甘えたまま大人になりました。
しかし日本の将来には大きな試練が待ち受けています。これから人口が大きく減少してゆく中で、そして「働き方改革」という流れの中で、それでも会社を発展させ、社会を豊かにせねばなりません。
先人の尊い働きのおかげで築かれた豊かな日本社会をどうしてゆくか、われわれ世代が問われています。
当社も来年から完全週休2日となり、働き方(働く姿勢)がますます大事になります。
「鉄を通じて社会を支えます」という経営理念を体現するときです。
充実した仕事、雇用と納税、そして人材育成を通して日本を支えねばと改めて思います。
今月も長文をお読みくださり、ありがとうございました。
2019年11月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三
■フェイスブックページ
https://www.facebook.com/syouzou.sakamoto/posts/2606728656085406