10年後の自分からの手紙 [給料袋メッセージ 144]

【10年後の自分からの手紙】
きょうは24日、給料袋のメッセージを書きました。
正月休みに書いた「10年後(60歳の時)の自分からの手紙」をシェアしました。
これから10年間の人生ビジョンを思い描きました。
[通算144号]

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

いつも社業への貢献、ありがとうございます。
今年の正月、私は「10年後の自分からの手紙」というものを書きました。

 

これは私が6年間学んだ故・木村勝男会長(木村塾)から教わったものです。

 

ビジネスや人生で達成したいビジョンを書く。
それも「10年後」や「20年後」の時点で、あたかもそれが「実現」したことを前提として、

10年前や20年前を振り返って「過去形」で書きます。

 

木村塾のそれがユニークだったのは、必ず数字(日付や金額や回数)を入れるよう求められたことでした。

 

「言葉はごまかせる、数字はごまかせない」
「思わんことは実現しない!」

 

それが木村会長の口癖でした。

 

「具体的な話が出来る人は必ず実現する」
「何回も書く、何回も言う。言うてるうちに矛盾や疑問が出る。『それでホンマにできるんか?』と。そして考える!」

 

そう徹底的に仕込まれました。

 

「聴いた人がのけぞるような大きなビジョンを話せ!」と、いつも喝を入れられました。

 

それらをまとめて「数字入りの大ぼらを吹け!」と、ハッパをかけられました。
(ちなみにアチーブメントの青木仁志社長は “Think Big!” とおっしゃいます。)

 

木村会長は50歳の時、バブル崩壊で230億円の負債を背負いました。

ちょうど今の私と同じ年齢です。

 

その解決のために、まさにそのように自分自身を鼓舞してビジネス人生を歩まれ、そして大成されました。

 

惜しくも一昨年夏に他界されましたが、会長から教えられた「ビジネス成功の鉄則」は不朽です。

 

この正月は会長を偲びながら、「10年後の自分からの手紙」を書きました。
そして「数字入りの大ぼら」たるBSビジョン(自己資本の目標額)も見直しました。

 

同時に、アチーブメントの青木社長から教わった「戦略的人生設計」も再考しました。
自分の人生を段階的に捉えて、人生ビジョンを追っていくものです。
10年前のアチーブメント初受講の時に考えたものを基本とし、毎年見返しています。

 

過去を振り返ると、思ったことはその通り、いや「それ以上」に実現しました。

 

これからの10年間を考えると、会社の進路に大きくかかわるのは「新工場」です。
長らく近隣での新工場増設を模索してきましたし、いまもその考えを捨てたわけではありません。
しかし、この「手紙」では「創業の地・九条を離れて新拠点に移転した」(過去形)

という第2ストーリーで、あえて展開してみました。

 

それが現実味を帯びるかどうか、ソロバンに無理はないか、理念に沿っているか、

「やってみよう」と心底から思えるかどうか、社員の皆さんやお客様、社会から歓迎されるかどうか。
それが最も大事だと、書いてみてつくづく思いました。

 

では、今回は少し長くなりますが、「戦略的人生設計」「BSビジョン」「10年後の自分からの手紙」をぜひご一読ください。
今年1年間、そしてこれから10年間も、あらためましてよろしくお願いします。

 

■ 戦略的人生設計

 

「学習の段階」 0歳から25歳
(中国留学を終えて社会人になるまで)

 

「試行錯誤の段階」 25歳から40歳
(記者時代、家業承継、リーマンショックまで)

 

「再度の学習の段階」 40歳から48歳
(経営者としての基礎学習期間)

 

「挑戦の段階」 48歳から60歳
(プロスピーカー合格・第2子誕生以後)

 

「収穫の段階」 60歳から72歳
(会社の78-90期、後継者へ委任)

 

「社会還元の段階」 72歳から82歳
(会社の90-100期)

 

■ BSビジョン ※ 自己資本「10年で3倍」が私の方程式

 

50歳 ―― 3億円
@2000万円×社員15人 総資産5億円(自己資本率60%)

 

60歳 ―― 10億円
@5000万円×社員20人 総資産16億円(自己資本率60%強)

 

70歳 ―― 30億円
@1億円×社員30人 総資産50億円(自己資本率60%)

 

80歳 ―― 100億円
@2.5億円×社員40人 総資産150億円(自己資本率60%強)

 

■ 10年後の自分からの手紙

 

いま2030年の正月を迎えた、わたしは60歳の還暦である。

 

振り返ると人生最大の転機は30歳を目前としたときの親父の死だった。

それまでは自分の人生の使い途として、高校時代から「ジャーナリズム」を志向していた。

 

私は日本人として「日本社会を良くすること」に命を使いたいと思っていた。

高校の頃から抱いていたテーマがアジア諸国との和解、そして反核(脱原発)だった。

 

町工場を経営する両親の思いに背いて、一時は新聞記者の道に進んだ。

 

今から思うと、生き方としては「アウトサイド・イン」だったかもしれない。

 

20代も終わりに差し掛かったころ、父が重い病(すい臓がん)であることが発覚した。

 

自分を生み育ててくれた大恩ある両親、そして家業の現実を考えて帰郷、3代目社長を承継した。

 

それが第1の転機だった。

 

父不在のなか悪戦苦闘し、何とか黒字転換。一時は「家業を継いでいけるかも」と思った。

だが、実情は「我流経営」もいいところだった。

 

第2の転機は40歳。リーマンショック後に創業以来の経営危機に瀕した。

我流経営の「化けの皮」がはがれた。創業以来の痛手を負って我に返った。これで会社はやっていけるのか。

 

しかし逆境によって経営者としての覚悟が逆に強まった。

 

「絶対に会社をつぶしてはならない」
「会社を人生のよりどころとしている社員が安心して働ける職場を作る」

 

それまでの我流を反省し「経営に役立つものなら何でも学んでやる!」と決意した。
だから40代はそれまでの人生で最も学びを加速させた10年間だった。

 

アチーブメント(青木仁社長と佐藤英郎先生)からは成功哲学と選択理論の教えを授かった。
木村塾の故・木村勝男会長からは逆境を生き抜くエネルギー、そしてBS経営という視座を授けられた。

 

思えば青木社長からは論語(志)を、木村会長からはソロバン(BS)を特に強く教えられた気がする。
これらがその後の人生設計の柱になった。
40代で最高の師に出会えたことが、その後の人生を決定的に好転させることになった。

 

〔挑戦の50代を振り返って=ビジネス編〕

 

本業たる鋼材ビジネスでは30歳からの20年間で財務の基礎を鍛えた(自己資本は当初の5000万円から3億円に=実質無借金)。

それを元手に50代の10年間はビジネスが急角度で伸長した。

 

50代半ばである2025年(自己資本5億円のタイミングで)、創業の地である九条を離れて新拠点に

社屋・工場の全面移転を果たした。投下資金は15億円。

九条の敷地を売却した結果、外部からの借り入れは5億円だった。

 

この時点で一時的に総資産20億強(自己資本7億=30%)となったが、

その後も順調に黒字を重ねて有利子負債を減らせることが出来た。

 

2030年の現時点では、自己資本10億(自己資本比率60%=総資産16億強)、

有利子負債も3億円程度と、ふたたび手持ち現金の範囲内に収まった。

 

創業の地を離れたのは、地価の高騰と市街地化の影響によるもの。

次の50年を考えた場合、新たな土地でビジネス展開をする必要に迫られたからだった。

 

さて、日本経済を見渡せば昭和末期(平成初期)のバブル崩壊から40年がたった。

それでも経済はまだ浮上しない。しかし産業の中枢を支える基礎素材である鋼材(鋼板)加工の需要は底堅い。

 

そしてこの40年間にプレーヤー(同業他社)は激減、絞りに絞られた。

いまやクオリティで顧客に支持される優良企業しか存在を許されない。

 

当社は今年(2030年)創業95年、戦後の法人化からは78期である。

いまから第90期までの12年間、さらに鋼材ビジネスで地歩を固めていく。

 

〔挑戦の50代を振り返って=パーソナル編〕

 

ビジネスの足腰を鍛えるために欠かせなかったのが能力開発だった。

40代で出会ったアチーブメントの学びを、50代はさらに加速させた。

 

48歳でJPSA(日本プロスピーカー協会)の認定ベーシック・プロスピーカーに合格したのを機に、

多くの中小企業家と学びをともに出来たのは望外の喜びだった。

 

大多数が中小企業で占められる日本社会の活性化のために私の「悪戦苦闘のストーリー」が歓迎されたのだ。

 

2020年、50歳でチャレンジしたアチーブメントの企業研修講師に合格し、

中小企業にとどまらず多くの組織で研修講師を担当させていただいた。

自分の経験を加味しながら「成功の原理原則」を伝えることが出来た。

 

そして私自身が人材教育の世界で「プロの技術」を吸収し尽くしたことにより、

我が社の社員は世間のどこでも通用する超一流の「人財」ぞろい、

まさに超一流の中小企業となった。

 

振り返れば、学生時代にジャーナリズムを志したのは「日本社会を良くすること」が目的だった。

手段は違えども目的は変わらない。

 

アチーブメントテクノロジー(目標達成の技術)と選択理論(人間関係構築の技術)、

そしてBS経営の極意を伝えることが企業経営者としての私のもう一つの使命である。

 

親からもらった「鋼材ビジネス」、そして人生の師たちから与えられた「スピーカー」という人生、

どちらも本業である。

 

そして私自身が高校時代から育んできた「文筆」への志。

 

それらすべてが私の生き方であり、社会への恩返しの方法である。

 

40歳で書き始めた毎月の「給料袋メッセージ」は20年間続き、もうすぐ300号だ。

 

私の地道な経営体験を書き綴ったものであるが、

町工場の世界から日本経済の実相を活写する内容が世間に歓迎され、

このほどエッセンスを出版することになった。私の経営人生の中間報告である。

 

〔収穫の60代へ〕

 

そして2030年、これからいよいよ60代だ。
企業経営30年、能力開発20年の蓄積、スピーカーおよび講師として10年の修練がいよいよ実を結ぶ時が来た。

 

鋼材ビジネスは新拠点をこのまま好調に稼働させ、

「理念経営」の御旗のもとに顧客への貢献を続けてゆく。

 

人員は20人態勢、そして成長を続けた幹部は私の分身として経営層にも入ってきた。

頼もしい限りである。

 

私の身の上に万が一のことがあっても大丈夫。
「財務のダム」「人材のダム」――どちらも盤石だ。

 

スピーカー・講師としてはJPSAを拠点として、

自らの経験を通して日本全国の中小企業家に「成功の技術」を伝え続けてゆく。

 

〔もう一つの挑戦〕

 

最後に、学生時代にジャーナリズムを志した原点の一つである朝鮮半島。

1948年の建国以来、世界史上稀な圧政に呻吟していた

この独裁国家(朝鮮民主主義人民共和国)もようやく民主化された。

80年間疲弊し尽くした北の国土の復興が今まさに始まる。

 

かつてジャーナリストとしての私の師だった故・萩原遼先生の「見果てぬ夢」が、

朝鮮半島北部の解放と、かの地の民衆の幸福、そして日本と朝鮮半島との真の和解だった。

 

私はいまこそ、自分のできる国際貢献としてビジネスを通じて朝鮮半島北部の復興に尽くしたい。

日本と東アジア地域の安定にこの命の最後を使う。

 

高校時代に芽生えた志、30代からのビジネスで磨いた技、40代からの学びと実践で培った知恵。
それらを統合し、さらに再挑戦の人生を送る。

 

家族を守り、社員に幸福を感じてもらえる職場を作り、会社を発展させ、

日本社会に貢献し、近隣諸国との友好に力を尽くす。

そのインサイド・アウトが残りの人生で進む道である。

 

「あきらめない人生に終わりはない」(青木仁志)

 

この言葉を胸に、ビジネス、自己成長、社会貢献の人生を最後まで全うする。

 

そして、縁ある人への貢献と感謝の人生を送ることで、育ててくださった方々への恩に報いる。

 

2030年正月  坂元正三

 

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以上、今月も長くなりました。
お読みいただき、ありがとうございました。

 

2020年1月24日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

 

【10年後の自分からの手紙を書け!】

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【大ぼらを吹け!】

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