日本一の下足番 [給料袋メッセージ 152]

社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

この4月から若い2人の新入社員、A君とB君が入社してくれました。

無事に3カ月の試用期間を終了して本採用となりました。2人とも見事な働きぶりです。

無遅刻無欠勤なのはもちろん、朝も早くからきて仕事の準備をして臨み、

C工場長とD先輩という2人の教育担当からの厳しい要求に応え続けています。

まだ製品の片づけが中心ですが、着実にこなしてくれています。

 

■    日本一の下足番
そう、入社した早々は出来る業務がまだ限られ、どんな会社でも最初はいわゆる「雑巾がけ」からスタートします。

その誰でもできる仕事をどのレベルまで高められるか。ここに働く姿勢、そして心構えが見えます。

 

「下足番(げそくばん)を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら誰も君を下足番にしておかぬ」――。

 

これは阪急電鉄の創業者・小林一三(こばやし・いちぞう、1873-1957年)の名言です。

下足番とはお客様の靴を出し入れする仕事で、昔の大きな日本家屋にはこうした係がいたようです。

そんな地味な仕事を、どこまで立派に出来るか。

 

阪急という鉄道・百貨店・文化芸術・地域開発など多岐にわたる巨大企業グループを一代で作り上げた小林一三。

仕事に対する姿勢や心構えを最も重視していたというわけです。

 

この下足番という言葉を聞いて思い出すのは、豊臣秀吉の立身出世ストーリーです。

農民出身だった若き秀吉は織田信長の家来となります。そして冬の寒い日に信長の草履を懐に入れて温めた。

そこまで心配りのできる若者、それほど自分のことを慕う家臣。

信長は秀吉を可愛がり、取り立て、やがては信長の腹心となります。

そして信長が明智光秀に討たれた後、秀吉は天下を取ります。

「日本一の下足番」たる秀吉は、日本一の武将にまで上り詰めたわけです。

 

この草履取りの話は、どうやら後年(江戸時代)になってからの作り話のようです。

しかし「小さな仕事にも誰もまね出来ないほどの熱心さで取り組む」という仕事に対する全身全霊をかけた姿勢を伝えています。

 

■    私の下足番時代

 

この私にも社会人1年生の頃がありました。

私は坂元鋼材の3代目を望まれる立場だったにもかかわらず、高校時代からまったく別の道(新聞記者)を目指していました。

25歳で初めて就職したのが時事通信社というマスコミ機関でした。

 

最初に配属されたのが東京本社の「外国経済部」というセクション。

ロイターやAFPという外国通信社から送られてくる英文ニュースを翻訳する職場でした。

実務ニュースがメインで、株式・為替や商品相場(大豆、小麦、原油などの取引状況)の翻訳が大半でした。

1日3交代で夜番(徹夜)もあり、欧米と日本の時差から夜番ほど忙しい職場でした。

そして英語も経済も苦手だった私には大変 苦しい仕事でした。

 

一方で、同期の友人たちは政治部、社会部、外信部などで華々しい活躍です。

当時は社会党の村山富市氏が総理大臣で、社宅で一緒だった友人は「村山首相番」でした。

入社した1995年に世間を騒がせたのがオウム真理教事件で、社会部でオウム担当をしていた友人の仕事ぶりがまぶしかった。

 

しかし、今にして思います。

この海外相場の翻訳という地味な仕事には、世界情勢を理解する基礎が詰まっています。

ニュース英語を正確に読み、そして経済理論を分かっていなければキチンとした仕事は出来ない、とても奥深いものです。

 

新人時代に没頭した地味な仕事。あの頃に勉強したことは、その後に工場を経営するようになってからも陰に陽に私を支えました。

今こうしてタイピングして書いている文章力の基礎も、あの時代に先輩記者たちから鍛えていただいたことが原点です。

無駄なことは何ひとつなかった。

 

■    そこに人生の目的があるか?

 

しかし、いま25年前の社会人1年生のころを振り返ってみますと、私はとても日本一の下足番などとは言えません。

「もっと出来たのではないか?」「もっとどん欲に働けたのではないか?」と内省します。

 

当時の私は北京特派員、ソウル特派員を夢見ていました。

学生時代から中国語を学び、この東京時代には韓国語も始めています。

しかし手を広げすぎて焦点が定まっていなかった。

 

新宿の古いアパートの一室に「現代語学塾」という小さな空間がありました。

「金嬉老(きん・きろう)事件」といっても若い方はもうご存知ないかもしれません。

在日韓国人の金嬉老が1968年に静岡県・寸又峡の温泉宿にライフル銃とダイナマイトを持って宿泊客を人質にとって立てこもり、

「朝鮮人は日本に来てろくなことをしない」と暴言を吐いたという警察官、その民族差別を社会に訴えた事件です。

その犯人・金嬉老を弁護する人たちが作った韓国語の私塾でした。

 

また、新潟県巻町で「原発建設の是非を問う住民投票」の現場を訪れたり、

中国・三峡ダムの建設サイトを取材したりと、有給休暇を使って長期遠征もしました。

会社の直接の業務ではない、個人的な強い関心事をプライベートに取材していました。

 

会社では経済と英語漬け、しかし一番やりたかった中国報道や深刻な社会問題の数々に没頭していたのが当時の私でした。
そして、そんな願望を持つ自分と「町工場の長男」としての立場。その折り合いをどう付けるのか、人生の方向性に迷っていました。
そんな私の新聞記者生活は、4年目に大阪の父が癌になったことで終止符を打ちます。

時事通信での3年半の働き方は「日本一の下足番」では、まったくなかった。

 

いま振り返ると、その原因は「自分だけの夢」を追っていたからだと考えます。

身近な人の幸福に 資するものではなく、長続きする生き方ではなかった。

家族、そして家業を支えてくれる社員さんたち、すなわち最も大切にすべき身近な人たちを犠牲にして社会問題を追及しても意味がない。

 

当時の私には「人生の目的」が分からなかった。「何のために生きるのか」が分からなかった。

そう、いまは思います。

 

■    C工場長の下足番時代

 

さて、日本一の下足番といえば当社にはそれに該当する人物がいます。

ほかならぬ工場長のC君です。

23歳で当社に来てからの彼の働きぶりは、まさに鬼気迫るものでした。

 

別の業界から転職してきた彼は、地道な仕事を重ねて力をつけました。

やがて会社がプラズマ加工機を導入するとプラズマを成功させ、

レーザー加工機を導入するとレーザーを成功させました。

5000万円のプラズマ、1億円のレーザー、どちらも社運を賭した設備投資でしたが、

期待をはるかに上回る働きぶりで成功に導きました。

 

ひと一倍研究熱心で、レーザーでもプラズマでもメーカーが保証する範囲を超えて機械の性能を高めてくれました。

また、消耗品の寿命を延ばしてコスト削減にもいそしみました。

それは、彼が開発したアイデアをメーカーが次のバージョンアップに取り入れたほどでした。

 

彼は高校卒業後にいくつかの職場を経て当社に来たとき、すでに1歳の赤ん坊がいました。

それからも子供が増え続けました。

働く目的は明確でした。「家族をちゃんと養うこと」です。

 

■    働く姿勢

 

そのC君の仕事哲学は、3年前に東淀工業高校で職業人講師として講話したものに集約されています。

「下足番」という観点から見ると、仕事に対する彼の姿勢が見事に表現されています。
一部を抜粋してみます。

 

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・    工業高校に行ったのは早く社会に出て仕事をしたかったから。

一番初めに就いたのは 営業だった。イメージと違ってすぐに辞めてしまった。

失礼なことをしたと思っている。もうちょっと頑張っていたら新しい発見が出来たかも知れない。

次は土木で、体を動かす仕事で楽しかった。汗かいて性に合っていた。

土木がヒマになった時、紹介されて坂元鋼材に入った。仕事が合っているかどうか最初はわからなかった。

けど、結婚して 子供が生まれた。こりゃやらなアカン、家族を養うためにも。

 

・    23歳で入社した。自分のすぐ上の先輩は40歳で、自分だけが思いっきり若かった。

一番初めに心がけたのが「サボらんように仕事する」こと。

何十年もやっている人に知識・技術では勝てない。体力しかない。

人間はサボりグセ、休みグセがつくと、言い訳するクセがつく。

「適当でいい」となる。若い時に絶対サボらない、それが大事。

 

・    会社で大事にしているのがチームワーク。職場間の移動を進めている。

「自分の仕事はこれだけ」と自分で範囲を限定するのでなく、他の人の仕事も出来るようになること。

そして他の人も自分の仕事を出来るように教えること。

相手のしんどさが分かって初めて「助けたい」と思える。それがチームワーク。

そんな思いを持てる子と一緒に働きたい。

 

・    プラスアルファ(+α)で何か出来るか。言われたことだけをやるのは作業。

頭を使って初めて仕事になる。100個のモノを作るのに、一日かけて100個か、半日で終わらせるか。

どっちが作業でどっちが仕事か。

 

・    求人票は、まず賃金を見てしまう。ぼくもそうやった。いま働いてきて思う。

会社勤め(サラリーマン)はしていても「自分が社長」と思うこと。自分という人間を会社(坂元鋼材)に売っている。

「こんなスゴイ仕事をするなら給料をもっと上げたい」と会社が思うかどうか。

そんなイメージに自分が近づくこと。そうでないと欲しい給料にはならない。まず自分自身が納得できる仕事をする。

会社が自分の給料を決めているんじゃない、結局は自分の働き方が自分の給料を決めている。

 

・    「こんな安い給料やったら、この程度の仕事にしとこ」と思う子がいる。

一方「もっとほしいやん、だからもっとやろう」と考える子もいる。どっちがいいか。

給料はすぐには上がらない。3年、5年、みんなから評価されて、ようやく上がる。そこまで頑張る。

 

・    結婚する前は、仕事って「やっとったれ」やった。適当やった。

でも結婚して子供が出来た。背負うものがある。自分が働かなアカン。

ちょっとでも家族を楽にさせたい。ギリギリの生活はでけへん。

 

・    おったら勝手に給料上がる? そんなことはない。

「自分が自分にあげたい」――。そんな働き方をしないと給料なんか上がらない。

 

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■    何のため、誰のため、なぜ?

 

何度読んでも感動します。私の新聞記者時代にこの必死さはなかった。

若き日の私は若き日のC君に完敗です。

 

それは、ことし入社10年目になるD君にしても同様のものを感じます。

D君についてはまた 詳しく書く機会があるでしょう。

彼も結婚を控えて、まったく別の業界から当社に転職してきました。

そして最初から素晴らしい働きぶりを発揮してくれ、C君の後継者の道を歩み、
いま彼とともに新人の教育担当を務めてくれています。もう立派な幹部です。

 

何のために、誰のために、なぜ働くのか。その「目的」が明確かどうか、それが働く姿勢を決めるような気がしてなりません。
2人の新人の前途に期待します。ともに、良い会社を作ってまいりましょう。よろしくお願いします。

 

2020年7月22日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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▲時事通信社1年生の時(1995年)

 

▲長沼節夫記者と(1997年ごろ)

 

尊敬するジャーナリストで時事通信の先輩でもあった長沼節夫記者と。

1997年ごろ、時事通信労働者委員会での一泊旅行にて。

当時、私の最もあこがれた記者だった長沼さん。

記者として、人間として、いろんなことを教えられました。まさに記者としての恩師でした。

 

その後、私が時事を辞めた後の時代になってのこと。

北朝鮮をめぐる報道姿勢で長沼さんと意見が異なり、恩師に対して論争をするという罰当たりなこともしてしまいました。
でも、報道の方向性は違っても、ジャーナリストとしての在り方、人としての在り方をずっと尊敬していました。

 

長沼さんは昨年ご逝去されました。
心よりご冥福をお祈りします。