木村勝男会長の講演録(MDRTプルデンシャル会)

【木村会長の大舞台を取材させてもらいました】

 

 木村塾の木村会長に出会ったのは5年半前になる2011年4月の「逆境経営セミナー」でした。初めてそのセミナーを聴いたとき、体に電流が走りました。

 「この人から学びたい」

 

 当時はリーマンショック後の大赤字で本当に切羽詰っていた頃。何を目標にして、そして何のために経営をしたらいいのかが分らず、もがいていました。

 木村会長のセミナーに通い続け、その答えを少しずつ見つけてきました。

 

 連続6回開催の「BS経営塾」というものに通っていた頃、その塾生向けのメーリングリスト(ML)がありました。

 木村会長のセミナーの一言一句を漏らすまいと聴いていたわたし。会社に帰ると、その日の授業で聞いたメモをパソコンに落とし、復習していました。

 その復習メモをML投稿したところ、木村会長がたいそう驚いてくれました。

 

 「わしのしゃべったことが全部のってる」

 「坂元さんは文章を書くのが本当にうまい」

 と、手放しでほめてくれます。

 

 そんな木村会長を見ていて、「この人は人のことをほめるのが本当に上手なんだ」と感銘を受けました。

 

 それからフェイスブックが流行りだしました。

 木村会長のセミナーを受講すると、私はまた復習がてらに会長の言葉をメモしたものを投稿しつづけました。

 やはり喜んでくれたのが会長です。

 

 そして最近は会長から「ご指名」が入ることに。

 セミナーに同行して「まとめを書いてくれへんか」というご依頼です。

 

 身に余る光栄、とはこういうときに使う言葉。

 これまでにも木村会長の故郷・益田に2度同行させていただきました。

 そして今回は東京で大きなセミナーがあり、会長に同行してまとめを書きました。

 

 会長がこれまで講演したときに聴衆の最多人数は300人ほどでした。

 ところが今回は660人。

 しかもMDRTプルデンシャル会、という保険業界トップの方々が集まったセミナーです。

 会長の大舞台ともいえます。

 そこでの取材。

 

 またしても「身に余る光栄」でした。

 

 MDRTという言葉を知ってはいましたが、彼らの会合はもちろん初めて。

 保険業界の約40万人のセールスパーソンのうち、成績優秀な上位約4000人(1%)で組織するMDRT。そのうちプルデンシャル生命の社員が1000人ほど(もちろん最多)ですから、この会社がいかにエクセレントであるかを物語ります。

 そのプロ中のプロの方々の大きなセミナー。

 同席させていただき、本当に感謝いたします。

 

 以下、一足先にフェイスブックにも投稿した「木村勝男氏講演録」です。

 木村会長、いつもかわいがって頂き、ありがとうございます。

 

 

 

【MDRTプルデンシャル会にて講演 = 木村勝男氏】

 

 MDRTプルデンシャル会による「秋の研修会」で木村勝男会長(木村塾)が講演。聴衆はおよそ660人。まずは会長の半生を描いた7分間のDVD上映。講演では生い立ち、父の死、大阪での成功。バブル崩壊という逆境と生還。次いで持論であるBS経営を語りました。後半は会場からの質問による白熱問答。以下、実況中継します。(2016年10月14日)

※)Million Dollar Round Table (MDRT) とは、卓越した生命保険と金融サービスの専門家による国際的かつ独立した組織です。MDRT日本会全会員数4,417名のうち、1,043名がプルデンシャル生命の社員です(2016年4月)。

 

 

□□□ 木村会長講演 □□□

■ 生い立ち~バブル崩壊
・ 私は子供のころ学校に行っていない。だから「やってみなわからん。やったことしかのこらん」という思いで生きてきた。足の裏に脳みそがある。そして「変化をチャンスに」とやってきた。変化の反対は安定。皆さんは恐らく「どうしたら安定した生活ができるか」と考えてきたでしょう。私には安定という考えがなかった。変化が私にチャンスをいっぱいくれました。
・ 1940年、島根県の益田で生まれました。小学校に入るまでに家を8回変わりました。小屋から小屋へ、まるでジプシーみたいなもんです。その途中で親父が徴用されて米子へ。兵隊にとられるのが徴兵、軍需工場に行くのが徴用と言いました。さらに親父はフィリピンに行くことになったけれど「これは帰ってこれないだろう」と思って脱走。益田で小屋に隠れていたところ、終戦を迎えました。
・ 親父は土方、どぶろく、ユウトンの売り買いで生計を立てました。どぶろくは違法で警察がうるさい。小学校の間に4回引っ越しし、小学校5年の時に親父の体がダメに。枕元に呼ばれて遺言を告げられました。「先は長くない。家族を頼むぞ」でした。
・ 親父の引くリアカーを坂道で押してあげる生活。中学校1年のときは1学期、2学期、3学期と3回変わった。2年生で益田に戻った。そんな生活だったから「学校に行って勉強していい会社に行く」などという話は聞いたこともなかった。飯食わなアカン。結局、親父は37歳で死んだ。弟2人、妹2人、母は32歳。私は5人きょうだいの長男で14歳でした。
・ 17歳の時でした(1957年)。大阪に行ったら土方でも1日500円になる。島根は180円~200円なので2倍以上。それで大阪に上がってきました。人口2‐3万のところから300万の都会に。戦後の大阪。飯場で土方に入った。6畳くらいの部屋に布団が3つ。そこへあとから家族も益田から上がってきた。飯場で日当500円といっても、どうも「700円のところを200円ピンハネされている」ということが分かってきた。それで土方を手配する側に回った。片方の部屋に家族、そしてもう片方に土方を住まわせた。で、ピンハネ。お酒や肉も売ったりして儲けた。のちに「700円で土方を借りて仕事をやった方が上や」と思って大阪ガスのガス配管工事をした。土方を借りて成長してきた。25歳で自宅兼飯場を建てた。そして結婚。いろんなことがうまくいき始めた。
・ いつまでも土方と家族が一緒なのは困る、別にする方法はないか。池田市に家を買って、事業所は歌島(西淀川区)と分けた。うまくいった。しかし200坪の土地がいるが金がない。当時は坪5万円で1000万円(今ならゼロがもう一つ多い)。金を用意するのに悩んだ。そうすると「お金は銀行にある」ということが分かった。銀行などというものは益田にはなかった。銀行からどうしたらお金を借りれるのか。結局、信用金庫(尼崎信用金庫)と取引した。わしはなんでもオープン。なんの仕事をしているとか、しょっちゅう行って話していた。
・ このガス(配管)屋をやったおかげで買った土地がどんどん値上がった。1000万円で買った200坪が3000万、5000万、1億円になった。こんなんなら自分の仕事よりもいい。
・ 28歳の時に定時制高校に入った。4年で卒業させてくれるという。ええなあ、と思った。それは子供が生まれて「親父が学校行ってないのはまずい」と思ったから。50人が入って結局15人が卒業した。卒業すると宅建の受験資格がもらえた。「1年間しっかり勉強したらいける」と言われて勉強したら、受かった。それがご縁で不動産業を始めた。そのころから不動産がどんどん上がった。しかし50歳過ぎでバブルが崩壊して飛んだ。230億くらいの借金になった。当時は1000億くらいの資金調達枠を持っていた。10の金融機関から借りていたが、後にそのうち7つがつぶれた。借金の取り立てをRCC(整理回収機構)、つまり日本政府がやることになった。そこに呼ばれた。ほかの人(債務者)らは弁護士や会計士を連れて行くけど、私は一人で行った。「持っている株を時価にして払え」と言われた。そのままRCCに差し出したところ「あんたは誠実や」と言われた。そのころ「貸した人間にも責任がある」との世論から「貸し手責任」という言葉が出てきた。20年は掛かるやろうと思う大きな難題だったけれど、実際は10年で解決した。

 

■ BS経営の大切さ
・ 決算書にはPL(損益計算書)とBS(貸借対照表)があるけど、それまではPLしか見てなかった。わたしも「売上に対して結果が出る」と思っていた。バブルが崩壊して経営の勉強をした。三千社の決算書を見て、一千社を実際に訪問した。すると、ほとんどの経営者がPLしか見ていないPL型だった。会社やなくて個人でもそれは同じ。PL型とBS型がある。
・ BSは左側がお金の「使い途」で、右側は「他人の金」と「自分の金」(自己資本)=あわせて総資産。
・ PLは上から見ていくと、売上高から原価を引いて「売上総利益」、そこから経費を引いて「営業利益」、つぎに「経常利益」「税前利益」「税引き後利益」。5つの利益がある。税金を払った残りの「税引き後利益」だけがBSに行ける(自己資本に蓄積される)。だから税金を払わんとアカン。税金を払わんと自己資本が貯まらん。PLとBSの間には大きな川が流れとる。それを「税金川」と呼ぶ。
・ そのころ「自己資本比率」という言葉を初めて知った。それまでは「少ない自己資本で大きな金を動かす方がいい」と思っていた。だからバブルが崩壊した時に自己資本は1000万円だった。当時社員が10人だから一人当たり100万円。これでは心もとない。まずは自己資本1億円(社員一人当たり1000万円)を目指した。自己資本を貯めようと考えたら、貯まった。バブル崩壊の50歳で1000万円だったが、それが58歳で1億円になった。うれしかった。もっとやったれ。「70歳までに10億円にする」という目標を立てた。売上やない、自己資本を。社員10人だから一人当たり1億円。
・ その数字を言葉にした。「自己資本10億が出来たらトヨタを抜くぞ」と社員に言った。みんな「なにをいうとるんや」「なんでうちみたいな会社が世界のトヨタを抜けるんや」というような顔をしとる。トヨタも当時は一人当たりやと5000万くらいやった。なにもあんな大きな会社を作るんやない。一人当たりにしたら出来るんや。そして、それが出来たら「トヨタの給料を抜くぞ」と言った。社員が初めてニタッとした。数字を言葉にせんとわからん。
・ 結果どうなったか。63歳で自己資本3億になった。良いBSを目指すのは経営そのもの。その時点で会社を後継者に渡した。BS経営が最高にいいのは経営者が育つこと。結果的に70歳で20億になった。このあたりのことは「BS経営のススメ」という本に書いた。
・ パチンコ屋もやった。駅前の材料置き場があると建売屋が言う。勘で「パチンコ屋がいい」と思った。その後ろにある土地を買い足したら出来るらしい。やってみた。やってみなわからん。ほんならできた。できるとかでけへんとかは考えない。
・ 仕事は30種類くらいやった。それも同時に。考えんとやっている。結局4社が残った。ガス屋、パチンコ屋、不動産、そして香港の会社(金融)。何でもやってみなわからん。やり方は同じ。BSビジョンを示す。BS経営で人が育つ。

 

■ 世の中への恩返し
・ 益田から大阪に出て来るまではサラリーマンというのを知らなかった。親父が亡くなって「家族を養わなアカン」という大きな環境をもらった。家族が多かった。それがいまの僕を作った。50歳でバブルが崩壊。そこでPL型からBS型に変えた。海外(香港)でも同じようにした。BS経営にはすごい力がある。ビジョンを共有すると人が育つ。いまではほとんど(後継者に譲って)リタイアした。あとは海外の1社のみ。80歳までにはリタイアする。
・ 世の中には本当にお世話になりました。親父が死んで、飯が食えん。だから生活保護をもらった。大阪でも最初は少しもらった。そのことが(心の)負担になっている。世間にお世話になっとる。自分の人生で返していきたい。
・ PLは1年ごとだから部分最適。しかしBSは創業以来の歴史。BSを社員にオープンにするとBS社員が育った。その育った社員を「経営社員」と言う。イコール経営者や。
・ 「他人のお金」というものをどう捉えるか。「借金」ではなく「資金調達」という考え方をすること。ヒト・モノ・カネを活かすのが経営。その結果、税金をようけ払う。私利私欲でなく公利公欲。「世の中のために尽くす」という考え。これが人を育てる。BSが経営者の通信簿であり表現力。50歳代、たくさんの債務免除のおかげで解決した。ようさん税金を払ってその時のご恩を返したい。BS経営で税金をようけ払うと公利公欲という感じになってくる。社会的な存在感が出て来る。優秀な社員を引っ張ることもできる。
・ 今年76歳を超えた。死ぬまでに故郷の益田に何が出来るか。お返し、恩返し。それを考えて進めている。そしてBS思考の経営者を一人でも多く作っていきたい。そして起業家を作りたい。起業家は創業者とは限らない。2代目、3代目でも起業家は起業家。変化をチャンスにする人が起業家。私の二つの大きな変化は親父の死とバブル崩壊。それがあったからいまがある。親父の死は変化。だから飯を食うことを考えた。
・ 渋沢栄一は「右手に論語、左手にそろばん」と言った。たいていの企業は「論語だけ」。右手が9割5分、口だけ。どっちも半々なかったらアカン。結果をよう作らないし、社員を育てることもできない。数字は強い言葉を引っ張る。「なんのためにやるんか」と。強い言葉が数字を作るんやない。逆や。強い数字が言葉を作る。それが僕の実感。海外に行っても一緒。英語は分からんけど数字は一緒。10年後のBSを作らせる。それがそうなるとどうなるか。わくわくする。
・ これまでの人生、苦労したとは全く思わない。人に相談したこともない。バブルが崩壊しても同じ。やってみなわからへん。
・ 10年前から木村塾を始めた。一人でも多くBS経営の人を作って、お世話になった日本に返していきたい。僕の目標はここにある。木村塾では、初め(自己資本)2000万とか3000万の人が、いま2億、3億、5億になっている。起業家が育っている。理念、ビジョンの存在。それが社員を作っていく。
・ 私はライフプランナーとか保険というものを知らなかった。いろんな仕事をやったけど、全く違う分野の仕事をやったし、人をくっつけなかった。それが私にとっての保険だった。
・ 国税局と話したら、税金払っても金が残る。私の故郷の益田、私を育ててくれた大阪に返してゼロにしていく。親父が亡くなったから飯食わなアカン。それがなかったら今日の私はない。ピンチはチャンスと言うでしょ。振り返ってみたら逆境でも何でもない。

 

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【質疑応答から】

〔問〕 中2でお父さんを亡くされた。僕たちの仕事はお父さんを亡くされた人に保険金を渡すこと。変化はチャンスと言うが、保険金はあった方がよかったか、必要か?
〔答〕 その時は保険などというものを知らなかった。もし親父があと10年長生きしていたら、今日の私はなかったでしょう。早く亡くなったから好きなことをやった。何か起きたときの対応を考えた。健康保険も後から知った。小学校高学年と中学校で生活保護をもらっていた。それが(心の)負担になっている。その時の金額でいえば大きかった。100倍、1000倍にして返したい。わたしが40歳のとき、母が58歳だった。「国から金借りとる、返さなアカン」と母。生活保護のことだった。母を連れて西淀川の区役所に行った、そしたら当時の民生委員の人がまだいて覚えてくれていた。「あんた立派になって!」と言われた。「生活保護は貸した金やないから返すことない」と。どうしたらいいか聞くと「寄付したらいい」。それで寄付した。生活保護は日本では保険みたいなものかも知れない。親父が死んで、飯食えん。それを不幸だと思ったことがない、稼がなアカンから。20歳くらいまでは靴を履いてなかった。働いて益田に送金せなアカンから。ひとから「偉いな」と言われたけど、そんなもんや。変化の反対は安定。安定を考えてやったことはない。変化が私に与えられたチャンス。

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〔問〕 バブル崩壊のとき、実際は負債がいくらで、どう返したのか?
〔答〕 ん? 耳がちょっと遠いんで、なに?
〔問〕 負債はいくら?
〔答〕 ああ、230億円。(会場、笑い) 債務免除があったりして実際は100億円くらい助けてもらった。だから100億円以上返したい。借りていた銀行10行のうち7行がつぶれた。負債はRCCに行って、そこが取り立てて来る。「借りた方が返さないのもいけないが、貸した方にも責任がある」「もう一回生かしてやらなアカン」と世論が変わってきた。そんな自分の体験が生きてBS経営に移行した。会社の存在そのものが公利公欲になった。すると信用力がつき、資金を調達できる。皆さんは無借金の会社を選び、自己資本比率が高い方がいいと思う。しかし私はその考えはない。適正(自己資本比率)は2割だろう。金融機関も都銀で10%。9割は預金者に借りている。ヒトを活かし、モノを活かし、カネを活かす。日本の銀行は貸すところがない。BS経営をすると資金調達ができる。BS社員=経営者がそれを覚えていく。

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〔問〕 一人当たりの自己資本目標やBSを社員にどう浸透させるのか?
〔答〕 ROA(return on asset)というモノサシがある。総資産(他人のカネと自分のカネを合わせたもの=アセット)に対してナンボ利益を上げたのか。普通は売上高に対しての経常利益を見たりする。そんなもん。もうひとつ、ROE(return on equity)。自己資本(自分のカネ=エクイティ)に対してナンボ利益を上げたか(税引き後)。この二つを使う。普通の人はそんなこと考えません。
ROE10% = 自己資本1000万円の10%なら税引き後利益100万円。自己資本1億なら1000万円。ROEは株主が見る株主視点。もうひとつのROA5% = 総資産の5%の経常利益。こっちは経営者が見る経営視点。
わしは(企業訪問して)いっぱい決算書を見る。「どんな会社にしたいんか?」「つくれ!」と言う。自己資本1000万円を10%伸ばすと2年目は1100万円、3年目は1210万円、7年で倍になる。わかりますか? 14年なら4倍になる。21年で8倍。28年で16倍。これやるとすごいのが出て来る。ROA、ROEの考え方は皆さんにもなくてはならない。2000万円の5%で100万円。3000万円で5%なら150万。ROAとROEにはバランスがいる。他人資本3000万、自己資本1000万、総資産4000万円。こんなこと考える経営者は少ない。それが新しい事業を作っていく。
BS経営塾に三上(良平)さんという経営者がいる。6年前に起業した時の自己資本が100万だった。それがいま1億6000万円になっている。10年目で10億にすると言っている。このBS視点がないと伸びない。PL経営では社員が育たない。

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〔問〕 自己資本比率を高める方針の会社に対して、どうアドバイスするか?
〔答〕 例えば総資産10億で自己資本8億(自己資本比率80%)、社員50名のような会社がある。このように自己資本が高くて借金が少ないのは日本式の経営、冒険しない。自己資本比率が高い人は、恐らく借金が嫌い。それが悪いとは言わないが。僕はいやだが。将来の夢(ビジョン)によって会社が成長し、社員も成長する。一番いいのはBS社員(経営者)が育つこと。自己資本比率の高い、いい会社は数字をオープンにしない会社が多い。うちの会社は2割。「なぜ2割か」を社員に説明してあげる。一人当たり自己資本1億も「なぜそうするんや」を同時に話していく。BS経営は「将来どうするんや」という話。

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〔問〕 会社は今後どう発展させるか?
〔答〕 ことし76歳。いまはかなりいい。そのカネを子供に残すと言う考え方がない。世の中に返していきたい。私を産んでくれた益田市、育ててくれた大阪市。国にも東日本大震災の時には(寄付を)やらしてもらった。そういうふうに処理していく。
※)記者注・・・木村会長は東日本大震災の時に1億1000万円を寄付している。

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〔問〕 ヒトを活かす、お付き合いの中で大切にされていることは?
〔答〕 BS社員とPL社員がいる。今年1年のことしかわからないのはPL社員。うちの社員たちが育てた「マネオ」という会社は、いま500億円くらい動かしている。するとそういう人が育つ。PLだけじゃ育たん。皆さんは能力をいっぱい持っている。しかし発想がPL。ぼくはたまたま(BSを)知った。何しろ日本はカネが余ってしょうがない。やりやすい国ですよ。ロシア(ハバロフスク、ウラジオストク)を見て来たけれど、カネさえあれば何でもできる。車の99%は日本車。新潟からも近い。東南アジアよりもあっちがいい。
僕の人生は60歳から75歳、この15年間が一番伸びた。皆さんもいくらでも伸びます。BSビジョンを持ってみて、共有してみて。100万円が1億6000万になった男は3期目から会社の人間が育った。経営発表会には金融機関も呼んでBSビジョンを公言させた。普通の人は失敗を怖がる。でも上手くいったら銭が儲かる、アカンかったら経験が儲かる。なにもせえへんやつが一番損する。いろんな仕事をしたけれど「失敗」してやめたとは思っていない。

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〔問〕 日本以外で経営をするなら、どこの国がいいか?
〔答〕 マネオの社長はイギリスがいいと言う。でも、よその国はカネが集まらない。アメリカも難しい。しかし日本はカネを貸す。文化的に借金したくない。日本に勝るところはない。日本はやりやすい国ですよ。そのチャンスを生かしてほしい。借金がいや、無借金でいこ。そういうところに人は集まらない。ヒトを活かし、モノを、カネを。それが経営。
益田から大阪に来るまで、社員になるとかサラリーマンとか知らなかった。自分の人生を振り返ってみて「ええ人生やったな」と感謝している。BSは預金、PLは給料みたいなもん。
お金のステージの話をしてみよう。100万円台(999万円まで)で出来る商売、1000万円台で出来る商売、1億、10億、100億、1000億、1兆。それぞれのステージで出来る商売が変わる。もしぼくが不動産やっとったら100億台。お金はステージ。自己資本も人から借りるの(他人資本)も一緒、総資産の話。それでステージを作ったらええやん。ウチは1000億に行くでしょう。それも総資産の話。1000万円と100億円はステージが違う、育つ人が違う。これはBS経営のみが育てる。大阪で商売を始めたとき(ステージは)100万円台だった。いま100億台。出来るんです。そういうビジョンを持っているかどうか、そうなったときの覚悟を持っているかどうか。すると生きた経営が分かってくる。

たくさんの質問、ありがとうございました。