【あなたは何によって憶えられたいか?】
きょうは給料袋のメッセージを書きました。
祖先の地からお墓を持って帰ってくる話の続きです。
たくさんの先祖のご苦労があって、今がある、私がある。
プラスの何かを残して、私も最後は生駒の土になります。
[通算166号]
■■■■■■■■■■
社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
前回の文章の続きです。
父が故郷の播州に作ったお墓を生駒に持って帰ることになりましたが、それは戦前の大阪に出て鉄の商売を始めた祖父母から始まる新しいお墓です。
それとは別に、曾祖父から上の先祖が入る古いお墓が祖先の地にあります。今回、この古いお墓もじっくりと見ました。
「坂元」という名字から「九州(鹿児島)のご出身ですか?」と問われることがありますが、播州です。山崎という山あいの農村が父母・祖父母のルーツです。
この古いお墓の霊標を見ると、文化元年(1804年)までさかのぼれました。私から数えて7代上のご先祖様です。しばし、感無量でした。
当社の初代社長は祖父(坂元正二)ですが、実質の創業者は祖母(坂元はる)。
祖母はこの地に「長男の嫁」として嫁いできたものの、どういうわけか祖父を焚きつけて大阪に出て商売を始めています。昭和10年(1935年)のことです。
農家の長男だった祖父の立場を考えると不思議です。
親たちの逆鱗に触れたのかどうか、農家なのに「一粒のコメも持たせてもらえなかった」と祖母は述懐していました。
それほど苦労しても、どうしても大阪で商売がしたかった祖母の情熱が、当社の原点です。節約と辛抱を重ねて、商売を徐々に太くし続けてくれました。
■ あなたは何によって憶えられたいか?
先祖の生きざまを考えたとき、アチーブメントの青木仁志社長から教えられた、20世紀を代表する経営学者ピーター・ドラッカーの言葉が思い出されました。
――――――――――
私(ドラッカー)が13歳の時、宗教の先生が「何によって憶えられたいかね」と聞いた。だれも答えられなかった。
すると、「答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄に過ごしたことになるよ」と言った。
長い年月が経って、私たちは60年ぶりの同窓会を開いた。ほとんどが健在だった。あまりに久しぶりのことだったため、初めのうちは会話もぎこちなかった。
すると一人が「フリーグラー牧師の問いのことを憶えているか」と言った。みな憶えていた。
ある者は40代になるまで意味が分からなかったが、その後、この問いのおかげで人生が変わったと言った。
25ぐらいになってから考え始めたという者も何人かいた。
(非営利組織の経営・ダイヤモンド社)
――――――――――
いかがでしょう。皆さんは何によって憶えられたいでしょうか。いずれこの世を去ったとき、子孫や後世の人たちから、なんと憶えられたいでしょうか。
私はこのドラッカーの言う「50」をすでに超えてしまいました。若干の焦りを感じながら、この文章を書いています。
■ 墓碑に何と書かれたいか?
このドラッカーの問いから連想されるのが、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑に刻まれるとされる言葉です。
「おのれより優れた者と働く技を持つ者、ここに眠る」
カーネギーはビジネスで成功した理由をこの一言に凝縮しました。
人は一人ではしょせん1馬力、多くの優れた人の力を借りることができて初めて偉大な事業が成し遂げられる、という意味です。
ところが実際にニューヨーク郊外にあるカーネギーの墓には、この言葉は刻まれていないらしい。
この言葉を座右の銘にしておられた木村塾の故・木村勝男会長は
「アメリカでカーネギーの墓に行ったら何も書いてなかったわ。ワッハッハ!」
と笑い飛ばしておられました。ニューヨークに行ったことのない私に真偽は不明ですが。
しかし実際の墓碑に刻んであろうがなかろうが、一代で巨万の富を築いた成功者としても、そして成功の原則をズバリ言い当てたこの名言でも、カーネギーの名は永遠に記憶されます。
■ やってみなわからん、やったことしかのこらん
さて、その木村勝男会長ご自身の墓碑には、こんな言葉が彫られています。
「やってみなわからん、やったことしかのこらん」
ニューヨークでなく箕面の勝尾寺にある木村会長のお墓には、本当にこの言葉が彫られていました。
14歳の時に父親に死なれてしまい、一家6人の生活が小さな肩にかかります。その強烈な逆境から、稀代の経営者人生が始まります。
中学を2年で辞め、さまざまな仕事をしながら大阪に出て、生涯で30以上ものビジネスを手がけられました。やがて不動産で成功するも、バブル崩壊で230億円の負債を抱えます。
この更なる逆境を跳ね返す過程でBS(バランスシート)を重視した経営に開眼されます。そして導き出したビジネス成功の法則を、全国の中小企業経営者に説くことを使命とされました。
その木村会長の墓碑に刻まれた言葉が「やってみなわからん、やったことしかのこらん」です。
新しいビジネスをするたびに、この言葉を呪文のようにつぶやいて自分を奮い立たせておられたのでしょう。
木村会長の60年以上にわたるビジネス戦記、そして「BS経営」の極意は永遠に語り継がれます。
会長が他界されて、この7月10日で丸3年になりました。夏になるとやはり偲んでしまいます。
▲ 2019年夏、木村会長の一周忌。
「木村勝男名言カレンダー」の制作チーム。
リーダーの福澤伸雄さんが居なかったのが残念!
▲木村勝男会長と。2015年12月、大阪木村塾にゲスト講師として登壇させていただいたとき。
■ 壁や困難から使命感が生まれる
人はそれぞれの人生の使命に、いつ出会うのでしょうか?
オギャーと生まれた時から使命感のある赤ちゃんはいません。
来月10歳になる長女、5歳になった長男のあどけない顔を見ていても、使命などという言葉はカケラも感じません。
いったい子供たちは、いつそんなことを考える年齢になるのでしょうか。
人が使命に出会う時、それは恐らくは「困難」と出会って初めて、ではないでしょうか。
例えば、身内が交通事故の犠牲になったために、そんな不幸な事故をなくす活動に使命感を持って取り組む方がいらっしゃいます。尊いことだと思います。
■ ジャーナリストとしての師・萩原遼先生
かつて私自身がかかわった市民運動では、北朝鮮の人権問題や拉致事件の解明に使命感を持つ方を幾人も見てきました。21世紀になってもまだ解決も解明もされない最大の悲劇の一つです。
この過酷な歴史的事案に心を痛め、または肉親が犠牲になるという強烈な不幸に直面し、何とかしなければならない、という強烈な使命感を抱く方々でした。横田さんしかり、有本さんしかり。
元「赤旗」平壌特派員だった萩原遼先生もそうでした。
北朝鮮社会の闇の解明に生涯をささげられました。先生の晩年20年近くをご一緒できたことは、学生時代からジャーナリズムを志した私にとって奇跡のような日々でした。
萩原先生もまた幼少期からの経済的に苦しい境遇から理想社会を夢見てペンに命を懸けました。日本と朝鮮半島の真の友好を希求したジャーナリストとして永遠に記憶される人物です。
▲2006年11月、私の結婚式でスピーチしてくださる萩原遼先生
■ 人生の師・アチーブメント青木社長
私にとってもう一人の師・アチーブメントの青木社長も、過酷な逆境から這い上がって成功し、だからこそ強烈な使命感を持って生きておられる方です。
複雑な生い立ちゆえ裸一貫17歳で北海道から上京します。20歳そこそこで独立した最初の事業に失敗し、3000万円という莫大な負債を抱えます。
その返済のために飛び込んだセールスの世界で腕を磨き、成功されます。その過程で身につけた目標達成の原理原則、人生成功のための法則をまとめ上げ、世の中に伝えておられます。
▲青木仁志社長と。2011年6月、ピークパフォーマンスコース受講時。
木村勝男会長、萩原遼先生、青木仁志社長。
実際のタイプはかなり異なる方々ですが、私が生き方で、そしてビジネスで悩んだ時に、これ以上ないほどのタイミングで出会った最高の師です。
お三人とも相当な逆境から人生の初期をスタートさせて、それを克服する中で自らを鍛え上げ、それぞれの使命に出会っておられます。そして世の記憶に残り続ける方々です。
心から憧れます。しびれます。
■ 私の使命
では、私にとって壁や困難は何だったか。
それはやはり30歳の時、父の他界により未経験で3代目を継いだこと。そして40歳の時、リーマンショックで過去最悪の大赤字を出した経験です。
私は苦労知らずで中途半端なボンボンでした。父母や祖父母がどれほどの苦労をしたかも知らず、甘やかされて育ちました。
だから3代目を継いでからの経験は、私が使命に出会うためには絶対に必要な試練でした。
経営者として出発したのはバブル崩壊後の景気低迷期。倒産する会社をたくさん見ました。集金に行くとシャッターが閉まっていたいくつもの光景は、何年たっても忘れられません。
低価格競争の恐ろしさ、大手企業への強烈なコンプレックス。営業にまつわる苦労は、自分を鍛えてくれましたし、いまも鍛えてくれています。
採用募集しても人が来ない、採用ミスの後には必ず起こった社内不和やもめごと。その対処を誤った末の労務問題。そして大赤字による経営危機。
しかし一方で、青木社長の学びから経営の目的を考え抜き、木村会長のBS経営から「社員一人当たり」という物差しに出会うことによって導き出された経営目標、そしてその達成。
父から経営をバトンタッチして22年になりますが、自己資本は当時の6倍となり、そろそろ父も安心してくれているでしょうか。
もうすぐ52歳。いまから30年後の第100期に向けて、ここからが新しいスタートです。
■ お墓に入るまでが勝負!
ここ数年、このような私の経営ストーリーを、たくさんの方々にお話しする機会に恵まれています。
すると「坂元さんの苦労時代はいまの私とそっくりです」「坂元さんの経験と私の経験が酷似しています」と、いろんな方が共感してくださいます。これは、予想外の驚きでした。
だから私がいま考える使命は、こうです。
先祖から預かったこの会社を年輪を刻むように着実に成長させます。ともに働く社員の成功を全力で支えます。その経験を通して学んだ人生成功の法則を自分自身が体得し、そして世の中に伝え続けます。
私は何によって憶えられたいか。
「日本経済が苦境だったあの21世紀前半を、先祖の正三さんは立派に乗り切られ、会社を強くしつづけ、そして多くの中小企業の見通しとなられた」
子孫からそう言われる人生を全うします。
父が作ったお墓は、もうすぐ北生駒の長弓寺に移されます。そこに入るまで、しばらく奮闘します。
ともに働く社員の皆さん、ぜひ力をお貸しください。
2021年7月21日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三