「平成30年間」を振り返る [給料袋メッセージ 135]

【「平成30年間」を振り返る】

 

きょうは25日、給料袋のメッセージを書きました。この週末に東京で、ある講演をさせていただきます。私の経営ヒストリーに「平成30年間を重ねて」というものです。
(通算135号)

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

いつも社業への貢献、ありがとうございます。
きょうは昔話に少々お付き合いください。

 

この春、高校時代の同級生から一本の依頼メールが来ました。母校である大阪府立大手前高校、その東京在住の卒業生で組織する会の年次総会で私に「30分の講演を」というものです。

 

歴史ある同窓会で今年は95回目。代々「50歳になる卒業生」が当番幹事で、今年は私たちの番。毎年毎年、出し物にも趣向を凝らしています。

 

私へのリクエストは「正ちゃんの中小企業経営のストーリーに平成30年間を重ねてほしい」というものでした。

 

〔平成30年間を振り返る〕

 

私たちが高校を出たのは昭和63年(1988年)で「昭和最後」の卒業生。そして50歳の当番幹事が回ってきた今年は「平成最後」の年でもある。

 

奇しくも高校を出てから今までが平成30年間にすっぽりと重なる。みんな社会のそれぞれの持ち場で必死に生きてきた。その一例として私の経営人生を使い、激動だった平成時代を浮かび上がらせること。それがねらいです。

 

打ち合わせに東京で2度リハーサルをしました。卒業してからはほとんど初めてとなる同級生たち。一瞬で懐かしい高校時代にタイムスリップします。みんな社会の第一線でバリバリと仕事をしたり、子育てがほぼ一段落したりと、それぞれの人生に懸命です。

 

この30年間を振り返れば明治や昭和ほどではないにしても、やはり激動の時代でした。収束の見えない福島原発事故など、後世からマイナスの意味で特筆される出来事が多かった時代とも表現できます。

 

平成元年(1989年)とはバブル経済が絶頂のころ。そのバブルが崩壊、地価や株価の暴落、巨額の不良債権、金融システム不安、経済の長期低迷。まさに日本経済の強烈な右肩下がりが時代の基調でした。

 

対照的なのが隣国の中国でした。平成元年(1989年)があの天安門事件です。民主化を求める丸腰の学生たちを人民解放軍が弾圧した恐怖政治。私はその数年後に中国へ2年間留学し、当時の中国社会の閉塞感や経済の低迷ぶりをよく知っています。

 

しかし、この30年間は「日中逆転」でした。いまや中国は日本を抜いて世界第2位の経済大国です。GDPは平成22年(2010年)に追い抜かれ、現在では2倍以上の開き。周回遅れで背中が見えない状態です。大阪の繁華街にあれほどの数の中国人観光客があふれるとは、30年前には夢にも思いませんでした。

 

私は中国から帰国した平成7年(1995年)、高校時代からの夢だった新聞記者になりました。阪神大震災と地下鉄サリン事件の年です。金融・証券担当だった平成9年(1997年)に山一證券の自主廃業に遭遇し、銀行の取り付け騒ぎの現場にも立ち会いました。

 

私の転機はその翌年である平成10年(1998年)。大阪にいる実父が「すい臓がん」になったとの知らせでした。「5年生存率は10%」でした。

 

そもそも私は鋼材業を営む家の長男。幼いころから「お前が跡継ぎ」という暗黙の了解の中で育ちました。ところが私は高校の3年間に起きた様々な社会的事象――チェルノブイリ原発事故、大韓航空機爆破事件、朝日新聞襲撃事件などに強烈な関心を持ちます。ペンの力で社会の実相を伝えたい、社会を良くしたい。そんな思いから新聞記者を志すようになりました。

 

高校時代は伝書鳩が上空をぐるぐる回りながら目指す方向性を探しているような、さまよいの3年間でした。懐かしい同級生たちと再会し、その当時の幼かった自分に再会したような錯覚も感じました。

 

〔利他の志〕

 

さて話を平成10年(1998年)に戻します。父の病は重く、その翌年に他界します。平成11年(1999年)、私は30歳で経営者としてスタート。不景気のなか悪戦苦闘します。束の間の経済回復期を経て、大型の設備投資(新工場の建設、レーザー導入)に踏み切ります。

 

ところが平成20年(2008年)にリーマンショック、そして翌年の大赤字による経営危機です。私は40歳でした。ここから遅ればせながら経営の学びを始めます。私は「なんのために」「誰のために」「なぜ」という目的(理念)がないまま経営し、無目的に人生を送っていたことを知ります。

 

学び続ける中で、高校時代から新聞記者を目指した過去も振り返りました。今にして思えば、それは志ではなく単なる「夢」だったのではないかと自省しています。

 

気づかせてくれたのはアチーブメントの青木仁志先生でした。「夢というのは多分に利己的である」と語っておられます。例えば、社会的あるいは経済的に成功はしたものの、人間関係を犠牲にしたために家族や仲間が離れていくケースが世間にはよくあること。それを踏ま

えて青木先生はこう述べておられます。

 

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・ 個人の願望や夢を実現するだけでは「むなしさ」から逃れることはできない。

・ 「人生の目的」とは個人の願望や夢ではなく「愛や利他の精神が含まれたもの」、すなわち「利他的な目的」です。利他的な目的が欠如すると、人は「利己的な目標」を追ってしまいます。

・ 志には利他の精神が含まれ、その実現は多くの人々の貢献につながる。

(青木仁志・下村博文「志の力」 アチーブメント出版)
 

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このような考え方に触れて、私は20代までの生き方を振り返りました。「ペンの力で社会を良くしたい」と思った高校時代の思いを私は「志」と思っていました。しかしそれは多分に「個人的な願望」に傾いたものでした。大恩ある両親や周囲の願い、私の実際上の境遇には調和しえない。

 

新聞記者という「職業それ自体」への幼い憧れは、短いながらも実際の記者生活で昇華しました。どちらかというと性格の強くない私には不向きであることも体感しました。生活の資を得るのは「ペン以外」でいい、とも達観しました。そのように思い始めた記者4年目、皮肉なタイミングで訪れたのが父の病という報せでした。だから私は帰郷を選択しています。

 

〔大廃業時代をひかえて〕

 

そして今年50歳になります。60歳までの次の10年間はこれまでの50年間を下敷きにした新たな挑戦です。

 

新しい時代のキーワードとして触れるのが「大廃業時代」です。日本は中小企業が企業数の99%以上を占め、労働人口の約7割を担っています。しかし2025年には6割の企業で社長の年齢が70歳を越えます。しかもその3分の1が「後継者未定」。それでは黒字でも事業を継続することは出来ません。

 

これは20年後の当社の姿です。同族企業でありながら、私は子供がまだ8歳と3歳です。私が70歳の時、長男はようやく大学を出る年齢です。それに、私が長男でありながら別の人生を模索したように、私の子供だからといって事業を継ぐことを選択するかどうかは分かりません。

 

いろんな意味で経営者が育つ会社にしなければなりません。私は健康に留意して何としても長生きし、人の育つ強くて良い企業を作り続けます。それがこれから残りの人生で成し遂げることです。50歳にしてようやく経営が安定し、そのスタートラインに立てました。

 

私たちがこの会社を通してやってきた20年の実践、これから20年の挑戦。それは日本の中小企業を象徴するものです。私たちは「14人の小さな会社」ですが社会に与える影響は小さくありません。この会社で実践することが日本社会の見通しになりえる、そう思っています。

 

〔壁を乗り越える〕

 

さて、今回の講演を引き受けるのは私にとって大きな挑戦です。高校時代、私は勉強をほったらかしで楽器を吹いたり、好きな本だけを読み漁ったり。おかげで成績は常に低空飛行でした。今回お集まりいただくのは主に80代、70代、60代の大先輩で、社会的に活躍された方々も大勢いらっしゃいます。若輩としての登壇ですが、高校時代にやり残した宿題を30年後にやっている気がします。

 

「壁は分子、器は分母。器が大きくなれば壁は小さくなる。天はあなたに乗り越えられない壁を与えない。大きな壁が来たら、あなたに『大きくなってほしい』という天の意図がそこにある」

 

昨年他界した木村塾の木村勝男会長の言葉です。この講演依頼をいただいたとき、そのあまりにもの大役に一瞬たじろぎましたが、その時に降りてきたのが木村会長のこの言葉でした。

 

仲間から与えられた貴重なチャンスに感謝して、自分の壁を乗り越えてきます。講演は今週末の日曜日(6月30日)。坂元鋼材のストーリーを平成30年間に重ねてきます。

 

日ごろの社員の皆さんの社業への地道な貢献のおかげで、こうして大舞台に立てます。
感謝して、がんばってきます。

 

2019年6月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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