【2つの壁ーー問題が器を大きくしてくれる】
夏季賞与を支給しました。この時期は父の命日(7月6日)と重なります。
20回目の命日を目前に、当時の父の心境をたどってみました。
そして、父の残してくれたもののおかげで今がある、そう感謝しています。
(通算136号)
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
きょうは夏季賞与の支給日です。
今期(68期)は景気の先行きが懸念されるものの、社業はまずまずの滑り出しです。
引き続きのご協力、どうぞよろしくお願いします。
夏季賞与の季節は、先代社長だった父の命日(7月6日)にほぼ重なります。
今年は没後20年ということで、やはり父を回顧してみます。
前回の給与袋メッセージ(6月)で触れたように、
このたび母校・大阪府立大手前高校の東京同窓会にて
「下町工場、逆境からの復活=平成30年間を重ねて」
というテーマで講演をさせていただきました。参加者150人ほどを前に、
なんとか無事に30分の講演を終えることができました。
あらすじは、こうです。
まず20代、親の願いに背いて新聞記者を目指したこと、
実際に記者になってからの葛藤、父の「すい臓がん」という報せ、帰郷(事業承継)。
そして30代、父を見送った後の悪戦苦闘、つかの間の成功、リーマンショック。
最後に40代、学びと自社改革、そして現在の成果。それを平成30年間に重ねました。
〔経済敗戦〕
バブルの絶頂で始まった1989年(平成元年)、私はちょうど20歳でした。
思えば好き勝手な学生時代でした。
楽器三昧、好きな本の乱読、そして中国へ留学、自分の願望のままに就職。
1995年(平成7年)、新聞記者になって目撃したのはバブル崩壊後の「経済敗戦」でした。
大手銀行や巨大証券の経営破綻、そしてゼネコンの苦境を目の当たりにしました。
そのころ、たまの休みに大阪に帰ると父は苦しい経営を守っていました。
父と母、そして祖母も手伝って夜なべの仕事もしています。すっかり儲からなくなった商売。
そんな家族の姿を見ながら私は「自分だけの夢を追っている」と自己評価を迫られます。
記者4年目、いつかは大阪に帰ろうと思い始めた矢先のこと、父が「すい臓がん」という報せです。
そして帰郷と事業承継。前回の文章に書いた通りです。
私が当社に入った1998年(平成10年)は業績も底辺でした。
売り上げはバブル期の半分以下で大赤字でした。
坂元鋼材はこの当時すでに設立50年近い老舗。
社員規模は10人少々で堅実経営をずっと守ってきました。
しかしバブル崩壊後は赤字続き。
「昔は余裕しゃくしゃくやったんやけどなあ」と、父は悔しさをにじませていました。
「不景気も普通は3年くらいで元に戻っていた。今度はまったく違う」と、一向に回復しない景気に父はいらだっていました。
がんの手術をしたのは、そんな経営状態のさなかでした。
〔父を見送る〕
すい臓がんの切除手術はなんとか終了。しかし「取り切れませんでした」とお医者様。
それからの父の病状に私たちは一喜一憂しました。しかし半年ほどして今度は肝臓へ転移。
下り坂を転落する日本経済と軌を一にするかのような、病状の悪化でした。
不景気に歯止めがかからず会社は不振、病気はよくならない、そして後継者の私は新米。
父の心境を思うと、いまさらながらに申し訳なさが募ります。
父は私に仕事を仕込みました。平日は営業を叩きこみ、休日は工場で鉄板の切り方を教えました。
自分の残り時間を計るかのような、鬼気迫る形相でした。
当時の父の言葉をいくつか思い出します。
「会社には土地の含み益がある。おじいちゃんらが戦後すぐに買った土地は簿価が低い。
銀行はカネを貸してくれる」――そう説明してくれました。
自分がいなくなった後の資金繰りを心配していたのです。
手術の翌年である1999年(平成11年)6月25日、最期の入院です。
腹水でお腹が膨れあがり、誰の目にも死期が近づいていました。
7月に入って社員の皆さんを病室に呼んで最後のお別れ。
そのころ父が私を枕元に呼んで言ったのが、この言葉です。
「わしが死んだら会社に1億円の生命保険が入る。それで借金を返してがんばれ」
オーナー経営者の覚悟を教えられました。
経営とは命懸け、体を張ってするものなんだ、と。
改めていま、当時の決算書を見てみます。
たしかに長期借入金は1億円以上あるものの、現預金もそれに相当するくらい積んであります。
年商(2億5千万円)からすると、十分な手許現金です。
察するに、自分がいなくなったら私がまず困るのは現金(キャッシュフロー)、
そう思って潤沢に現金を積んでいたのかもしれません。
そこに生命保険の1億円が入ります。
父の死亡退職金として母が相続し、それを会社に貸し付ける形にしました。
それで銀行からの借り入れをグッと圧縮できました。
帳簿上は自己資本6000万円(自己資本比率25%)でしたが、実質の自己資本は1億6000万円(同50%)のようなものです。
父が体を張って残したこの自己資本が、新米経営者だった私を支えてくれました。
〔悪戦苦闘の30代〕
私はちょうど30歳でした。父不在のままの悪戦苦闘。
当時の社員さんの支え、そして思い切った設備投資(ツイスター)が成功。
そして2002年(平成14年)から6期連続の黒字を重ねます。
BS(貸借対照表)で言えば、30歳で父と交代したときの自己資本(帳簿上)が上述のように6000万円でした。
これが39歳までの9年間で1億2000万円にまで積み上がります。
しかし、リーマンショック後の大赤字(7000万円の最終赤字)で5000万円にまで逆戻り。
父から受け継いだ額よりも目減りさせてしまったのです。
しかもリーマンショック直前に大きな借金をしていました。
買ったのは新工場と新設備(レーザー)です。
父は婿養子という背景もあり、小心で超堅実な経営でした。
石橋を叩いても渡らない性格でした。
一方で、私は誰に遠慮もなく自由に経営できました。
その結果、年商に匹敵する3億円以上の借金を抱えていました。
自己資本比率は10%以下に。
他人のカネ9割、自分のカネ1割でした。
〔自己改革の40代〕
「学び」による私の改革が始まるのが2009年(平成21年)、40歳でした。
なにわあきんど塾、中小企業家同友会、アチーブメント、そして木村塾が4本の柱でした。
それから始まる様々な経営改革、自己改革。
大赤字の翌年から9年連続の黒字を重ねました。社員の皆さんの奮起のおかげです。
50歳になる今年、自己資本は2億9000万円まで積み上がりました。
3億円は目前です。借入金は手持ち現金以下にまで減り、実質無借金。
自己資本比率は65%です。
自分のカネ(返さなくていいカネ)が6割以上。
ようやく手にした安定経営です。
このいまの良い状況を父に報告したい。
生きていたら、どんなに安心してくれるか。
「こんな小さな会社でもな、社員の家族を入れたら五十人以上が飯を食ってるんやぞ」――。
そうつぶやいていた父。
良い仕事をしてしっかりと稼ぎ、そして強い財務体質を作ること、それは何よりも働く社員の安心につながる。
父の言葉から気づかされた経営の目的です。
30歳で後継、40歳でリーマンショック、そして50歳でようやく安定経営の入り口に立てました。
〔問題が器を大きくしてくれる〕
前回(6月)のメッセージの最後で木村塾の故・木村勝男会長の言葉を紹介しました。
「壁は分子、器は分母」 というもの。
器が大きくなれば壁は小さくなる、自分が大きくなれば問題は小さくなる、そういう意味です。
この言葉に鼓舞されて、高校の同窓会での講演を引き受けたのが昨年末。
半年かけてようやく、その任を無事に終えました。
身に余る大役でしたが、引き受けて本当に良かった、チャレンジしてよかった、少しは成長できた、器を大きくできた。
そう思っています。
いままた思い出すのが、木村会長の言葉です。
「問題が器を大きくしてくれる」――。
こう語っておられます。
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経営学は教えることも学ぶこともできるが、経営は教えることも学ぶこともでけへん。
商売してると次から次に問題が押し寄せてくる。
資金繰り、お客さん、従業員、いろんな問題が出てくる、次から次に出てくる。
それが先生や、そっから学ぶんや。
問題が人の器を大きくしてくれる。
苦労とやりがいはセット。やりがいだけはない。
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20年前の父の急逝、そして10年前のリーマンショックによる大赤字。
この2つが私の人生最大の壁でした。
おかげで少しは器を拡げることが出来ました。
木村会長の口癖です。
「わしの人生の原点は2つ。
14歳の時の親父の死。わしは長男やった。
親父は『家族を頼むぞ』と言い残して亡くなった。
逆境の始まりやった。
そして50歳の時のバブル崩壊(230億円の負債)。
その2つの大きな壁がわしを鍛えてくれた」
木村会長の2つの巨大な壁を思うとき、自分のそれの何とかわいらしいことか。
まだまだ、まだまだ、まだまだ、器を拡げてゆけます。
今年もこれから暑い夏が来ます。
仕事を通じて人を喜ばせ続けましょう。
そして器を拡張してまいりましょう。
引き続き、よろしくお願いします。
2019年7月5日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三
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