仕事は人生そのもの [給料袋メッセージ 150]

【仕事は人生そのもの】

 

勤続36年超のベテラン社員の荒川さんがご退職されました。
仕事を愛し、会社を支えてくださった職業人人生でした。
長年にわたるご奉職に心より感謝します。
(通算150号)

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

いつも社業への貢献、ありがとうございます。
今月、最高齢社員の荒川義弘さんがご退職されました。65歳の定年を過ぎてからも1年間の雇用延長で頑張ってくださいました。1983年(昭和58年)11月の入社から36年7カ月のご奉職でした。

 


 

■ 生粋のプロ職人

 

荒川さんが当社に来られたのは29歳、前社長(私の父)の時代でした。

 

父から聞いた荒川さんの面接の話です。
「熔断の上手い職人がいる」と人づてに紹介されてきた荒川さん。日曜日で父はアイトレーサーを使って6tの鉄板を型切りしていました。父は46歳、祖父から社長交代して10年ほど経っていましたが現場の仕事もずいぶんとしていました。

 

面接にやってきた荒川さんは父の代わりに見事にトレーサーを操作し、その場で即採用になったということでした。この時すでに荒川さんは十年以上のキャリアを積んだ、溶断一筋のプロ職人でした。

 

私も若き日の荒川さんをよく覚えています。当社はまさに町工場、会社と住居がいっしょですから、私は社員さんに囲まれて育ちました。大学時代には休みの時に工場を手伝い、荒川さんのもとで鉄板を切りました。仕事をなんでも器用にこなし、小さな備品などもよく自作されていました。

 

思うに、頼りになる職人が現場に入ったことで父は経営者としての自由度が大きく増したはず。父にとって荒川さんは大事な右腕でした。

 

■ NC導入の立役者

 

荒川さんが入社して6年後(1989年)、当社始まって以来の大型設備が導入されました。NCガス溶断機です。慎重の上にも慎重を期する性格だった父にとっては大きな投資。もし失敗すればどうなるか、悩んだ末の決断です。その機械を任されたのが当時35歳の荒川さんでした。

 

CADを導入するのも初めて。それまでは定規とコンパスで作図していたのですが、これをコンピュータで作る時代が来たのです。幼少期から私の記憶にある父の姿は、まさに定規とコンパスを使って大きな厚紙に作図し、それをハサミで丁寧に切って型紙を作っている姿でした。

 

それがデジタルになる。その新しい仕事を新井美香さんという当時の若手社員さんが学んでくれました。何ごとにも物おじしない大らかなご性格で、初めてのCADに果敢に取り組んでくださいました。慎重派の父はとても頼りにしていました。

 

荒川さんと新井さん、2人のコンビでNCは順調に稼働し始め、当社にとって無くてはならない主力の機械になりました。

 

荒川さんも当時は30代半ば。職業人としても脂の乗ったころで、新しい大型設備に全力を尽くされました。熟練の技を新時代の技術に融合させ、プロフェッショナルとしてやりがいに燃えておられたことでしょう。

 

■ 痛恨の死亡事故

 

さて先日の最後の出社日のこと。お別れのあいさつで37年間を振り返った荒川さんは31年前の事故のことに触れられました。

 

1989年12月、当社で起こった死亡事故です。石橋朝夫さん(当時50)、勤続6年の社員さんでした。鉄板をクレーンで移動させているときに吊り荷のバランスが崩れ、落下した鉄板に下半身を挟まれての死傷事故でした。当社の長い歴史で最も悔やまれる労災事故です。

 

荒川さんはこの時、同じ工場で別の機械を使っての作業中でした。ともに働く同僚が命を失う過酷事故を目撃された荒川さん。会社人生で最も忘れられない光景として、最後のあいさつで触れられました。

 

当時社長だった私の父にとっても生涯で最も悔いていた出来事でした。父はこのとき52歳。社員を業務上の災害で死なせてしまったこと、経営者としての自分を責めていました。

 

当時私は大学1年生、父の憔悴ぶりはいまもありありと覚えています。警察での対応のこと、ご葬儀でのこと、幾度もご遺族のもとを訪ねたこと。30年前のことですが、父から聞かされたことを覚えています。父はその10年後に病気で他界しますが、最後までこの事故を悔いて、自分を責めていました。

 

いま私は経営者の立場となり、年齢も当時の父とほぼ同じ歳になりました。経営者として社員を事故で失うこと、どんなに償っても償いきれるものではありません。

 

亡くなられた石橋朝夫さんのこと、私も面影を覚えております。あらためてご冥福をお祈りします。この会社の後継者として、このような事故を絶対に起こしてはならない。いま一度誓います。

 

■ 安全第一の心構え

 

荒川さんはこの事故を直接知る最後の社員さんです。お別れのあいさつでこのことに触れたのは、この事故の教訓を未来の社員に受け継ぎたいという強い意志がおありだったためです。折しも2人の若い新入社員を迎えました。彼らはこれから長い職業人人生をスタートさせます。クレーン教習にも来月から通います。安全第一の思想を受け継ぎたかったのです。

 

我々の仕事にとって欠くことのできないクレーンですが、ひとたび使い方を誤れば恐ろしい凶器になるということ。荒川さんはこれを強い警告として最後に述べられました。

 

・ どんなに急いでいても安全第一を心がけること
・ 吊り荷のバランスには特に気を付けること
 (必ずセンターを吊ること)
・ ハッカー(爪)は慎重に掛けること
・ 古いワイヤーはすぐに捨てること
・ 電動マグネットを過信しないこと
 (機械モノには故障があり得ること、その時には吊り荷が落下すること)
・ 万一の落下を想定し、つねに逃げ場を意識しておくこと
 (背中に「荷物を背負わない」こと)
・ 在庫の山を高くしすぎないこと
・ 端材はキレイにバランスよく積むこと

 

現場人生50年の知恵です。小さなミスが大きな命取りになること。我々は危険な作業に従事していること。様々な警告を最後の最後まで若い社員たちに説いてくれました。

 

■ 父の片腕として

 

そのNC導入と死亡事故は同じ1989年のことでした。それから9年後の1998年、先代社長(父)は重い病にかかります。すい臓がんという難しい病気でした。

 

経営者としてだけでなく営業、製造、そして現場の指揮も一手に手掛けていた父が突然に第一線を離れます。

 

父が重病という報せを聞いて、大阪を飛び出していた長男(私)があわただしく帰ってきたものの、経験ゼロの新入社員では何の役にも立ちません。

 

その危機に際して父が頼ったのも荒川さんでした。当時の現場には荒川さんより社歴が長いベテラン職人が何人も活躍していました。しかし工場全体の流れを読んで仕事を切り盛りする役割を、父は荒川さんに託したのです。

 

父の闘病中、荒川さんは現場を見事に統率してくれました。経営者が突然不在になるという危機のなか、まさに全社が一丸となりました。そのリーダーが荒川さんでした。

 

父は翌年他界しますが、そのあとを継いだ新米社長が私でした。当時荒川さんは40代半ばの働き盛り、そしてご家族を養ってゆくうえでも稼ぎ盛りのころです。勤務先のワンマン社長が急死し、後継者は頼りない。世相はバブル崩壊後の不景気がどん底に達したころ。さまざまな不安をお感じになったに違いありません。

 

荒川さんをはじめとして先輩社員の皆さんは、本当に私をよく支えてくれました。あの頃の社員さんの結束のおかげで今の会社があるのだと、あらためて感謝の思いです。

 

 

■ ガス溶断は「人生そのもの」

 

さて、荒川さんが軌道に乗せたNC溶断機は31年後のいまも立派に現役で活躍しています。まさに荒川さんの熔断人生の「相棒」です。この機械で切り出した鋼板加工品は31年間で、いったい何万トンになることでしょうか。社会の隅々に行き渡り、いまも縁の下で世の中を支えているはずです。

 

そして31年前の機械がキレイに磨き上げられて、いまも現役でいること。メーカー(小池酸素工業)の技術者がメンテナンスに訪れるたびに賞賛されます。荒川さんが機械を大切に扱ってこられたことの証左です。もうこの機種は日本にほとんど現存していないもの。しかし昔の機械だけに頑丈に作り込まれていて、メンテナンスが完璧なのでいまも現役を保っているのです。メーカーの人がほめてくれるたびに、荒川さんはどことなく嬉しそうです。職業人として、産業人として、まさに誇りを感じる瞬間だったに違いありません。

 

そんな荒川さんは数年前、会社ホームページに掲載する社員インタビューでこう語っておられます。

 

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「両親が溶断会社に住み込みで働いていたため、私は小学生のころから親の手伝いでガス溶断をしていました。もうこの道五十年です。
鉄は生き物で、ガスも生き物です。レーザーやプラズマと違うのは『職人の技』の入る余地が大きいこと。いつも火の形、勢い、音などに注意を払っています。
ミスなく、速く、キレイに、歪を少なく切断することが毎日の目標です。そして安全を心掛けています。
ガス溶断は私の人生そのものです。私の技術を若手に教えることが次の目標です」

 

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■ 関わり合いの内実

 

7年前、社内研修としてアチーブメント株式会社による2日間の集中セミナーを行いました。最終日に「人生理念プレゼンテーション」というセッションがありました。自分の人生を振り返り、大切にしたい思いをみんなの前で語るというものです。

 

この時すでに荒川さんは勤続30年目(58歳)。坂元鋼材に入社してからの数々の思い出を語り、「先代社長のおかげで今の自分がある」としんみりとつぶやかれました。会社の後継者としてというよりも「父の息子」として私は感動して拝聴しました。

 

荒川さんだけでなく、尾和田さん、糸井さん、塩谷さんなど、当時まだ在籍しておられたベテラン社員さんも父への思いを人生理念に乗せて口々に語ってくれました。

 

その時、先代社長を知らない若い世代である前君(現・工場長)がこう言いました。「ベテランさんたちが先代社長に抱いておられるような気持ちを、僕たちが60代になったときに現社長に抱くかどうか、ですね」――。そうシレッと(?)言いました。

 

なんと痛烈な、しかし本質的であることか。経営者として歩いてゆく道のりの遠さを私は実感しました。

 

荒川さんたちが父に対して抱いてくれたような心の通った関係性、まさに「関わり合いの内実」を社員たちと結ぶこと。これが経営者としての大切な在り方だと研修で気づかされました。

 

荒川さんが退職された日、私は父の仏壇にお線香をあげて報告しました。

 

「父さん、荒川さんが最後の勤めを終えられましたよ。父さんがいなくなってからも、ずっと私と会社を支えてくれました。荒川さんも、父さんのことをずっと慕ってくれていましたよ。いまからは第2の人生をゆっくりと過ごしてもらいますね」

 

荒川さん、長年にわたる大きな貢献、本当にありがとうございました。父も天上から荒川さんにお礼を述べているに違いありません。長い長い職業人人生、本当におつかれさまでした。
ありがとうございました。

 

2020年6月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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