【 父の「無言のセールス」 】
きょうは賞与の支給日でもあるのですが、父の19回目の命日でもあります。
父を偲んで給料袋メッセージを書きました。
(通算121号)
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。きょうは夏季賞与の支給日です。第六十七期も四半期が終わり、好調に業績を重ねています。社員の皆さんの一つ一つの丁寧な仕事の結果です。感謝します。
さて、きょうは少し昔話を書いてみます。私は前職が新聞記者だったため、よく「面白い経歴ですね」と言われます。町工場の三代目長男に生まれたにもかかわらず、なぜ記者を目指したのか。その原点を振り返る機会が少し前にありました。
私が中学三年生だった一九八四年に放映されたNHK特集「核戦争後の地球」。その映像(DVD)を三十数年ぶりに見ました。当時は米ソ冷戦の真っ最中。仮に核戦争が起これば、東西両陣営の歯止めなき応酬で全世界が炎上。巻き上がった粉塵が成層圏を覆って太陽光をさえぎり、地球は氷河期に。そして人類絶滅。この番組を見て戦慄した中三の時の記憶がまざまざと蘇りました。
その翌年の一九八五年、大指揮者レナード・バーンスタインが「四十年目のヒロシマ」で平和コンサートを開きました。それを聴きに広島を初訪問したのが高一の夏。原爆資料館も初めての体験でした。一九八六年のチェルノブイリ原発事故が高二の春。こうした時代背景から、反核や反戦を訴えるジャーナリストを志す少年が出来上がりました。
「ペンのチカラで社会正義を実現するのだ」――。
中学二年くらいの思春期に取り付かれる誇大妄想や自意識過剰のことを表した「中二病」という言葉があるそうです。私はそれだったのかもしれません。
ところが私の実家は町工場を経営し、父は婿養子で入った二代目社長。私はその長男(姉二人)。跡取り息子のはずの私がわけのわからない本ばかり読み、好き勝手なことを口走り始め、父はおそらく 困ったに違いありません。
今年二月の社内学習会で「選択理論心理学」を学びました。この選択理論に出会って私は、高校生の時になぜ自分が新聞記者を目指し始めたのかが、よくわかるようになりました。
選択理論によると、人間は遺伝子から来るさまざまな「欲求」を満たそうとして行動を選択するそうです。自分の欲求を満たすであろう人・モノ・理想・価値観・信条などから構成されているのが「願望」。それは自分にとって心地良いもの。たとえば愛する家族、好きな食べ物、旅行してみたい場所、そして趣味など。それらが自分の欲求を満たすさまざまなイメージ写真(願望)となって脳の中のアルバムに貼られています。人はそのイメージ写真を求めて内発的に行動を選択する、と説明されています。求めているものが得られると快感、そうでなければ苦痛を感じます。人はそれぞれの願望を満たそうとして、その時々において最善の行動を選択している。
高校時代の私の願望に貼ってあったのは「社会正義を追求するジャーナリスト」というイメージ写真でした。ひとの本棚を見ると、その人が常日ごろ考えていることや願望がわかるものです。当時の私の本棚は日本の戦争の歴史、公害や原発などさまざまな社会問題、南北朝鮮や中国の本であふれかえっていました。そこに経営や鉄鋼に関する本は一冊もなかった。大学も商学部や経営学科ではなく政治学科に進んでいます。父の望みとは全く正反対な学生でした。
そんな私に対して父は「お前は工場の跡取りだ、好き勝っては許さん!」――。
などとは、言いませんでした。
選択理論の教えに「致命的な七つの習慣」そして「身につけたい七つの習慣」というものがあります。
前者は「人間関係破壊の法則」です。批判する、責める、文句を言う、ガミガミ言う、脅す、罰する、目先の褒美で釣る。別名「外的コントロール」。電気ショックのような強い刺激を外側から与えて「相手(の考え方や行動)を変えよう」とする行為です。しかし外的コントロールは人間関係を破壊します。使われたほうの気分が悪くなり、相手の顔を見るのもつらくなる。そんな人の言うことを、聞き入れたりはしません。願望から相手が締め出されるからです。仮に一時的なり表面的に従ったとしても、まさに一時的なり表面的です。本心からではありえない。
そうではなく、選択理論が勧めるのは「人間関係構築の法則」です。傾聴する、支援する、励ます、尊敬する、信頼する、受容する、意見の違いがあれば常に交渉する。別名「内的コントロール」です。
人はそれぞれ異なった願望を持っているもの。親子といえども別の人間です。願望と願望はぶつかることがある。その時に、どんな態度をとるか。
思えば父が私にガミガミ言ったことは、ほとんどありませんでした。むしろ私の願望を叶えようと一生懸命でした。大学四年の時に私は新聞社しか受験せず。それが全部失敗した時、私は中国へ二年間留学することを勝手に決めました。父は反対もせず、黙って応援してくれました。出発の日に父は大きな荷物を神戸港まで持ってきてもくれました。
帰国して私が時事通信に入った時には小料理屋でわざわざ祝ってくれました。東京で社宅に入った時には、電化製品を買いそろえにわざわざ上京してきてくれています。名古屋に転勤した時も同様です。
父の願望は、私が会社の後を継ぐために坂元鋼材に入ること。そうだったに違いありません。それなのに、よくもまあ、ここまで息子のわがままを許したものです。
父は婿養子として二十三歳で母と結婚して坂元鋼材に入り、それから四十年間、働きに働きました。石油ショック後の不況だった一九七四年、当時最大の得意先が倒産して経営危機に陥った時、父は祖父から社長をバトンタッチしています。父三十七歳です。経営者として立ち向かった苦境の日々が目に浮かびます。会社と自宅が一緒なので、早朝から深夜まで、家族総出で働いていた時代でした。幼いころから私の遊び場も会社。父母の働く姿を見て育ちました。
「こんな小さな会社でもな、社員の家族を入れたら五十人以上が飯を食ってるんやぞ」――。
そうつぶやいた父のことも、思い出されます。
婿養子として会社を次の世代につなぐこと。これが父の最大の願望だったに違いありません。しかし 跡取り息子は反原発だ、アジアとの和解だ、などと好き勝手なことを言っている。もし短気な私だったら息子を怒鳴りつけていたかもしれません。父は私と違って几帳面で、謙虚で、慎み深く、小心すぎるくらいに小心でした。いろんなことに配慮し、気を遣い、ついには自分の息子にまで遠慮して言いたいことを言わなかったのではなかったかと、いまさらながら反省しています。
時事通信では好きな記者稼業に就かせていただき、毎日が新鮮でした。学生時代から尊敬していたジャーナリストの長沼節夫さんが同じ会社におられて、じかに教えを乞いました。まさに願望が叶った 瞬間でした。自分の取材したことが記事になる、名刺一枚でいろんな人に会える。将来は北京特派員、ソウル特派員に。それが私のイメージ写真でした。
しかし、たまの休みに大阪に帰るとバブル崩壊後の不景気の中、父は厳しい商売を続けています。夜なべ仕事もあいかわらず。私は自分だけの夢を追っている。そう申し訳なく思い始めました。そのころ、父たちの故郷(兵庫県山崎町)に家族で墓参りに帰ることがありました。私が車のハンドルを握り、父が助手席です。高速道路を走っていた時、父がぼそっとつぶやきました。
「こんな風に会社も運転してくれたらな」――。
この一言は、効きました。
時事通信四年目の時、二十八歳で私は名古屋支社勤務でした。その夏に、大阪から思いがけない知らせが入ります。父が「すい臓がん」に、というものでした。記者稼業に未練はある、思いっきりある。しかし「大阪に帰ろう」と私はすぐに決断しています。北京特派員もソウル特派員も願望でしたが、それよりも父のことがもっともっと大きく願望に入っていたからです。父はその年の九月に手術したものの、翌年の夏に他界しました。わずか一年弱でしたが最後の最後に父と一緒に仕事ができました。
最近になってこのエピソードを、とある会合で私はお話ししました。それを聴いてくれた方が「お父様の『無言のセールス』ですね」とおっしゃいました。父は私に小言を言わなかった、ガミガミも批判も一切なかった。しかし私は自分の意志で帰ってきた。父の生き方に、人柄に、その背中に無言のうちに説得されたからです。
町工場の後継者という道を、私は内発的に動機づけられて自分で選びました。この選択は強いと思います。いろんな事態にも遭遇しましたが、自ら選択した道だから絶対に逃げません。これがもし父に命じられて渋々帰ってきたのなら、少々の壁にぶち当たっても言い訳をして簡単に仕事を投げ出したでしょう。
父の無言のセールスのおかげで私があります。会社経営という可能性あふれる素晴らしい仕事に心から感謝しています。選択理論心理学を学んで、父の私へのかかわりの深さをしみじみ感じています。
今日は父の十九回目の命日です。命日に免じていただき、昔話を長々と書いてしまいました。
今月もお読みいただき、ありがとうございました。
二〇一八年七月六日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元 正三
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