萩原遼さん、安らかに

【萩原遼さん、安らかに】

 

昨年末、萩原遼さんが逝去されました。元赤旗記者(平壌特派員)で、退職後はフリージャーナリストとしても北朝鮮の人権問題を訴え続けられました。
私にとってあこがれの存在だった萩原さん。20年ほど前からお付き合いさせていただき、そばで学ばせてもいただきました。しかし、この数年はお会いすることもめっきりと減っていました。萩原さんが大病を患われてからは活動の拠点を東京に移され、さらに疎遠になってしまったことを後悔します。
享年81。私のなき父と同年である1937年(昭和12年)生まれ。ちょうど萩原さんと出会ったころに父を見送ったこともあり、私の中では父の姿とだぶっていました。
私の結婚式にもご臨席いただき、飛び入りでスピーチしてくださったことも懐かしい思い出です。「経営者とペンの二足の草鞋を履け!」というような言葉で激励していただきました。ありえないくらいにもったいない言葉でした。
萩原さんのことを書こうとしても、なかなか言葉になりません。ひとまず評論家の三浦小太郎氏の記事をシェアして、萩原さんを偲びます。

 

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以下、三浦氏の文章より・・・・・

 

「萩原氏は若い日から日本共産党員であり、貧しい人々が、共産主義によって解放され、すべての人々が幸せに生きられる世界を信じて活動してきました。それを今の時点で批判するのは簡単ですが、そのような理想を本気で信じる善意で理想に燃えた人々がいた時代があったことは確かです」

 

「萩原氏のように、日本共産党に属し、共産主義の理想を信じ、在日朝鮮人と交友していた人が、北朝鮮と朝鮮総連、そしてそれを批判しない日本の多くの左翼陣営を敵に回して戦うことがどんなに大変だったか、私には想像を絶するものがあったはずです」

 

「今でも忘れがたい萩原氏の言葉があります。これは、確か雑誌正論に掲載した文章の中でも書いていた言葉ですが「マルクスはキリストに負けたんだ」という言葉でした。これは、キリスト教という固有の信仰だけではなく、萩原氏が言いたかったことはもっと深い意味があると思います。それは、闘争や、一歩誤れば憎悪や復讐に至りがちな革命の論理ではなく、人間が許しあい、連帯できる理想こそ本当の意味で人間を解放するということだったと思いますが、今はこれ以上、故人の言葉を勝手に私が語るのは避けます。しかし、生涯を通じて信じてきた思想を、このように反省することがどんなに大変なことか、それがどれだけ勇気がいることかを私たちは受け止めねばならないでしょう」

 

 

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三浦小太郎氏のブログより「全文」

 

Kotaro Miura
2017年12月25日 · 
萩原遼氏死去…「北朝鮮に消えた友と私の物語」

 

 萩原遼氏 80歳(はぎわら・りょう、本名・坂本孝夫=さかもと・たかお=ノンフィクション作家)22日、東京都内の自宅で亡くなっているのが見つかった。
 告別式は近親者で営む。喪主は、兄で古典芸能評論家の木津川計(きづがわ・けい)氏。
 高知県出身。1999年に「北朝鮮に消えた友と私の物語」で大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に「朝鮮戦争」「金正日 隠された戦争」など。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171225-00050118-yom-ent

 

萩原遼さんが天国に旅立ちました。

 

今はなかなか言葉になりませんが、萩原氏についてどうしても語っておきたいことだけを記しておきます。

 

萩原氏は若い日から日本共産党員であり、貧しい人々が、共産主義によって解放され、すべての人々が幸せに生きられる世界を信じて活動してきました。それを今の時点で批判するのは簡単ですが、そのような理想を本気で信じる善意で理想に燃えた人々がいた時代があったことは確かです。

 

そして、萩原氏の親友の在日朝鮮人も、同じ理想を信じて北朝鮮に帰国事業で渡りました。萩原氏が赤旗特派員として平壌に赴き、そこで親友に再会しようとしたときの悲劇は「北朝鮮に消えた友と私の物語」(文藝春秋)に記されています。

 

それ以後、萩原氏は苦悩しつつも、1990年代以後、北朝鮮の人権問題を告発する運動を始めました。1994年に「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を、小川晴久氏、金民柱氏らと結成して、北朝鮮を告発した時は、総連の暴力にさらされました。同時期、関西では李英和氏をはじめ、RENKの運動が北朝鮮の独裁体制民主化を訴えました。

 

私のように、もともと反共産主義の人間は、北朝鮮を批判するのは簡単なのです。しかし、萩原氏のように、日本共産党に属し、共産主義の理想を信じ、在日朝鮮人と交友していた人が、北朝鮮と朝鮮総連、そしてそれを批判しない日本の多くの左翼陣営を敵に回して戦うことがどんなに大変だったか、私には想像を絶するものがあったはずです。

 

萩原氏は、そこで誤解にさらされ、友人を失うことも畏れず、断固として、北朝鮮の独裁体制を批判し、帰国者、日本人妻の救援を訴え、その後明らかになった拉致問題に対しても日本政府に同胞救出を訴えました。萩原氏をはじめ、横田めぐみさんの拉致が明らかになる前に、日本の左翼系の方と在日コリアンの人たちが北の人権問題に立ちあがったことは、少数派だったとはいえ、忘れてはならないことだと思います。萩原氏は日本共産党から除名されますが、恥ずべきは共産党であって、左翼の理想を守り続け独裁者と戦ったのは萩原氏の方でした。

 

その後、萩原氏の言動は、拉致と帰国事業の責任者としての朝鮮総連を許せないという姿勢をさらに明確にし「朝鮮総連をさら地にする会」における定例街宣などを展開していきます。その中で、正直に言えば、北朝鮮の人権問題を訴える団体の中でも、いろいろな見解の違いや距離も生まれることもありました。私自身、ここ数年は、萩原氏と疎遠になっていたことも事実でした。

 

しかし、今でも忘れがたい萩原氏の言葉があります。これは、確か雑誌正論に掲載した文章の中でも書いていた言葉ですが「マルクスはキリストに負けたんだ」という言葉でした。これは、キリスト教という固有の信仰だけではなく、萩原氏が言いたかったことはもっと深い意味があると思います。それは、闘争や、一歩誤れば憎悪や復讐に至りがちな革命の論理ではなく、人間が許しあい、連帯できる理想こそ本当の意味で人間を解放するということだったと思いますが、今はこれ以上、故人の言葉を勝手に私が語るのは避けます。しかし、生涯を通じて信じてきた思想を、このように反省することがどんなに大変なことか、それがどれだけ勇気がいることかを私たちは受け止めねばならないでしょう

 

しかし、萩原氏が、信じた理想に裏切られても、孤立も誹謗も畏れず、その理想を侮辱し親友を死に至らしめた北朝鮮と朝鮮総連と戦い続けた人生は、ある意味、日本左翼の良心のあかしだったのではないかと思います。

 

萩原氏が天国に旅立ち、親友と再会していることを祈ります。