【10年後の自分からの手紙】
きょうは25日、給料袋のメッセージを書きました。
正月恒例の10年ビジョンです。
[通算159号]
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
正月の恒例、「10年後の自分からの手紙」 を今年も書きました。これは故・木村勝男会長(木村塾・BS経営研究所)から教わったもの。
ビジネスや人生で達成したいビジョンを描く。それも「10年後」の時点で、あたかもそれが実現したかのごとく「過去形」で書くというもの。そして必ず数字(日付や金額)を入れます。
「言葉はごまかせる、数字はごまかせない」
「具体的な話が出来る人は必ず実現する」
「何回も書く、何回も言う。言うてるうちに矛盾や疑問が出る。『それでホンマにできるんか?』と」
それが木村会長の口癖でした。
「数字入りの大ぼらを吹け!」
「大きな目標を持たないと常識的に考える。大きなビジョンが潜在能力を引き出してくれる」
「目標もビジョンも公言せえ! 言葉が行動を後押しする」
「公言したらプレッシャーがかかる? そうです、プレッシャーがかかるような人生を送るんです!」
そのようにハッパをかけ続けられました。
同時に、アチーブメントの青木仁志社長から教わった「戦略的人生設計」を再考しました。自分の人生を段階的に捉えて、人生ビジョンを追います。11年前のアチーブメント初受講の時に考えたものが原版で、これを毎年見返しています。
■ 戦略的人生設計
「学習の段階」
0歳から25歳 (中国留学を終えて社会人になるまで)
「試行錯誤の段階」
25歳から40歳 (記者時代、家業承継、リーマンショックまで)
「再度の学習の段階」
40歳から48歳 (経営者としての学習期間)
「挑戦の段階」
48歳から60歳 (JPSAプロスピーカー合格・第2子誕生以後)
「収穫の段階」
60歳から72歳 (会社の78-90期、後継者へ委任)
「社会還元の段階」
72歳から82歳 (会社の90-100期)
■ BSビジョン ※ 自己資本「10年で3倍」が私の方程式
50歳 ―― 3億円 @2千万円×社員15人
総資産5億円(自己資本比率60%以上)
60歳 ―― 10億円 @5千万円×社員20人
総資産16億円(自己資本比率60%以上)
70歳 ―― 30億円 @1億円×社員30人
総資産50億円(自己資本比率60%以上)
80歳 ―― 100億円 @2億円×社員50人
総資産150億円(自己資本比率60%以上)
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【10年後の私からの手紙】
いま2031年の正月を迎えた、私も61歳だ。
先代社長だった父が病で急に他界したのは、私が30歳のときだった。あわただしく3代目を継いだ。だから経営者人生はもう31年、人生の半分を越えた。
振りかえると30代は我流の経営で右往左往した十年間だった。大海原の小舟のように漂流していた。経営には守らなければならない原理原則がある。それを知らぬまま経営していた。
目的地もわからなかった。会社経営だけでなく、人生経営も。
40歳の時、リーマンショック後に大赤字になった。真っ逆さまに落ちるジェットコースターのようだった。ここで目が覚めた。
景気が良くても悪くてもビクともしない会社は、どうしたら作れるのか?
その答えを探し求めた。なにわあきんど塾を振り出しに、中小企業家同友会、アチーブメント、木村塾。これらの学びをひた走った40代だった。
経営の原理原則を学び、会社に持ち帰って実践する。そうすると面白いように会社が良くなった。
40歳の時に10%だった自己資本比率は、50歳の時に70%になっていた。
社員一人当たりの自己資本額は40歳の時に400万円だったが、50歳の時に2000万円に達した。
自己資本とは「返さなくていい自分のお金」である。社員一人当たりの自己資本が多ければ多いほど、不況に強い。これが2000万円あるということは、地震や津波や大不況などで売り上げが仮に「4年間ゼロ」でも社員に給料を払える状態だ。
この自己資本の強さこそが、景気が良くても悪くてもビクともしない会社の要件の一つだ。
これが60歳の時に5000万円を超えた。この先もこの数字を着実に積んでいく。まさに「財務のダム」だ。
そう、私の経営における至上命題は「永続」である。社員は会社に命を託してくれている。
この会社は私が82歳の年に第100期を迎える。父は62歳で他界したが、私は健康に留意し、何が何でも会社が百年企業となる姿、健全に発展する永続企業をこの目で見届ける。これが人生目標である。
私の人生には10年ごとに転機がやってきていた。30歳での親父の死、40歳での大赤字、50歳でのコロナショック。しかし、これは人生と経営を鍛えるうえで必要な壁だった。乗り越えるたびに経験はキャリアに変わった。
「天はあなたに乗り越えられない壁は与えない」
「問題が器を大きくしてくれる」
木村会長の言葉は、まさにその通りだった。
■ 挑戦の50代を振り返って = ビジネス編
十年前の2020年-2021年にかけて、コロナショックが世間を襲った。鉄鋼需要はバブル崩壊後もっとも厳しい低迷期に直面した。過去最高益を更新し続けた40歳代の快進撃が一旦ストップした。しかし、これが更なる発展の契機だった。
「チャンスはピンチの顔をしてやってくる」という青木社長に教わった格言は、まさに真理だった。
需要低迷を機に販売戦略をテコ入れした。インターネットを活用し、さらに多くのお客様から注文を頂けるようになった。当社の得意とするきめ細やかな顧客対応、そして高品質・短納期が評価されたのだ。販売エリアは関西から全国区に広がった。
時を同じくして、このコロナの年には2次加工にも乗り出した。小さなボール盤を導入したのをきっかけに、溶断の次工程を少しずつ内製化していった。これがお客さんの利便性にかなった。コロナの時期にまいた種が、順調に芽を出してくれた。
この「コロナ後」の再成長を支えたのが若い社員力である。
新卒社員たちが順調に成長し、若手は中堅となり、それぞれの持ち場で大きな力を発揮した。工場も事務所も、お互いの仕事をとことん教え合い、学び合った。これが社風をさらに良くしたのは、言うまでもない。
若手だけではない。幹部たちは仕事力に加えて会社全体を見通す大きな経営能力と人間力を身につけてくれた。
私も61歳になった。父がすい臓がんを発症した年齢でもある。健康に留意して毎年の人間ドック・がんドックも欠かしていないが、人生には「まさか」もある。そのまさかに備えて育て続けたのが、いざという時に経営を任すことのできる継承人財だ。
自己資本の蓄積もうれしいが、人財が育ってくれたことが更にうれしい。
この「人財のダム」が業界の宝となり、どこまでも鋼板加工で日本の製造業を支え続けてくれている。
■ 挑戦の50代を振り返って = ライフワーク編
60代を迎えて人生を振り返ると、やはり最大の転機は40歳の時の大赤字だった。あそこで経営の学びに出会えたからこそ、今がある。
アチーブメントの青木社長からは成功哲学と選択理論の教えを授かった。
木村塾の木村会長からは逆境を生き抜くエネルギー、そしてBS経営という視座を授けられた。
思えば青木社長からは論語(志)を、木村会長からはソロバン(BS)を特に強く教えられた気がする。これらがその後の人生設計の柱になった。40代で最高の師たちに出会えたことが、その後の人生を決定的に好転させた。
アチーブメントテクノロジー(目標達成の技術)と選択理論(人間関係構築の技術)を実践して体現し、BS経営の極意を世の中に伝えることが私の使命である。
親から受け継いだ「鋼材ビジネス」、そして師たちから与えられた「スピーカー」という人生。くわえて私自身が高校時代から抱いてきた「文筆」への志。それらすべてが私の生き方であり、社会への恩返しの方法である。
40歳で書き始めた毎月の「給料袋メッセージ」は20年以上続き、300号を超えた。私の地道な経営体験を書き綴ったものであるが、町工場から日本経済の実相・経営の真髄を活写する内容が世間に歓迎され、55歳の時にエッセンスを出版した。私の経営人生の中間報告だった。
■ 家族に感謝
この経営者人生を支え続けてくれたのが、妻の由妃である。今年は結婚25周年になる。本当にわがままで自分中心、仕事中心の私だった。妻の存在があってこそのビジネスの成功だった。感謝しかない。
長女の晴花も19歳、長男の大樹は14歳。二人とも私に似てわがままいっぱいだが、元気にのびのびと成長してくれていて、うれしいかぎりだ。そろそろ自分の人生の目的に気づき始めるだろうか。どんな人生ビジョンを描くだろうか。一度の人生、自分という資源を世の中に生かし切ってほしい。
さあ、今年は会社の第80期だ。ビジネスはサクセス、プライベートはハピネス。その人生を今年も貫く。
2031年正月 坂元正三
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さて、皆さん一人ひとりの「10年後」はどんなビジョンでしょうか。
誰もが自分という人生の経営者。一度きりの人生、どんなビジョンを描いていますか?
来月の個人面談では、このあたりのことも是非きかせてください。
2021年1月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三