【会社を変える、自分の考えを変える】
きょうは24日、給料袋のメッセージを書きました。
世間ではそうなっていても、なかなか踏み切れなかったこと。会社としてそこに舵を切りました。
これまでの自分の固定観念(思い込み)を反省します。
「小さな一流企業」への新たな一歩です。
(通算134号)
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
いつも社業への貢献、ありがとうございます。
このたび会社では新たな決定をしました。来年(2020年)から完全週休2日にします。
当社はずっと隔週に土曜日出勤(半日)があり、完全な土日休みは夏場だけでした。年間の平均休日は105日。業界ではよくあるパターンの働き方でした。
この「よくある」ということが私の意識を固まらせていました。いくら完全週休2日が世間の主流になってきても「自社はこのままでよい」と信じて疑っていませんでした。
完全週休2日の必要性を直接に感じたのは求人活動です。採用難になり応募がなかなか振るわない。ハローワークや求人媒体(マイナビさん)の担当者によると、いまの若い人が望むのは賃金もさることながら「休み」の多さ。年間の休日数が極めて重視されるようです。
社内からも「土曜の半日出勤がどうにかならないか」という声なき声(?)が聞こえていました。
現在いてくれる社員、そして未来の社員を考えると、決断の時期は来ていました。いまでも7-8月は完全週休2日で回っており、他の季節でも無理ではないはず。しかし、現実に仕事が回るかどうか、支障はないか、思案しました。
「世の中の流れに沿う」ことと「お客様に不便を掛けず、業務も回る」こと。果たして両立できるか。それが先日の会議のテーマでした。
■ 週休2日は「当たり前」
週休2日は全員が賛成でした。いや「大」賛成でした。
私にとって驚きだったのは、世代間の意識の差でした。若い世代は「小学校からすでに週休2日」であり、土曜日が休みなのは「当たり前」ということです。
どうやらいま40歳以下の世代がそのようです。ことし50歳になる私ですが、私たちの世代は小学校も土曜日は「半ドン」で午前中は授業がありました。いつからそうでなくなったのか、調べてみました。
戦後、高度経済成長を遂げた日本は1980年代から諸外国との貿易摩擦を引き起こします。安価で質の良い日本製品が海外にあふれました。その結果「日本人は働きすぎ」「労働時間を短縮すべき」との外圧がかかります。
そのころから「労働時間は1週40時間」「完全週休2日」の流れが出来たようです。
結果、1992年から公務員は完全週休2日制になっています。学校では1992年から月1回、1995年から月2回、そして2002年から完全実施されています。
ということは、2002年に小学校1年生(7歳)の子供は1995年生まれで、ことし24歳です。若い世代にとって土曜休みは「当然」という意識も、よく理解できました。
「土曜も(半分は)働くもの」というのは私たち近辺から上の世代の「常識」であり、それは時代とともに変化し、そして変化に対応しない会社は生き残れない。そう痛感しました。
■ 解決策をみんなで考えました
週休2日のメリットは十分あります。反対する社員は誰もいない。では、課題をどう解決すべきか、です。
● 短納期が「売り」の当社として、お客様に不便を掛けないか?
● 年間20日ある土曜出勤(半日)がなくなることで、機械の稼働率が下がること。
● 土曜に行っている月1回の学習会・会議はどうなる?
● 土曜を使った「整理整頓・美化」「教え合い」「業務の交代体験」はどうするか?
これらについて、極めて前向きな発言をたくさんいただきました。
● 生産力・機械の稼働率を落とさないために、忙しい時には土曜出勤(または振替・代休)、あるいは前日の残業で対応する。
● 一日の通常勤務時間を15分延長する(ジャスト8時間×週5日)。
● 年末の機械の大掃除、数カ月に一度のノロ出し(廃棄物の処理)は休出または代休(振替)で対応できる。
● 事務所は土曜日を「あて」にしない。平日で仕事を処理してしまう。
● 短納期対応は受注の時に気を付けていれば大丈夫。
「出来ない言い訳」は一切なく、「出来る方法」を全員が前向きに考えてくれました。たいへん心強いことです。
■ 学習会(土曜日の目玉行事)はどうするか?
この10年間続いている月1回の社内学習会(または会議)をどうするか。これも課題です。この時間だけは絶対に確保したい。しかし平日の営業時間帯にはできない。そこで、月1回は平日の終業後にすることに決まりました。時間外(残業)として行います。
10年前の大赤字を機に始まった社内改革で、この月1回の学習会は大きな柱です。全員で一つのテーマを学ぶこと、議論すること、社内の意識を統一していくこと。それがどれほど大事か。いまの社員の皆さんの働く姿勢が鋭いのは、この学習会の存在が大きい。年に数回実施している理念研修もそうです。
会社の課題を共有し、さまざまな情報を学び、そして全体最適な働き方を考え、そして実行してくれました。この時間は「刃を研ぐ時間」として、今後もどうしても外せません。
来年からは終業後の午後5時以降のスタートとなります。会社に根付いた良き習慣として、これからも継続します。午後6時半に終了すれば、それから有志で食事に行くのもいいでしょう。新しい学びの在り方を見つけていきましょう。
■ 先人たちのご苦労のおかげ
それにしてもやはり日本は豊かな社会なんだと、あらためて実感します。
いまNHK衛星放送で連続テレビ小説「おしん」の再放送をしています。私には人生のバイブルのような番組で、数年に一度は見返しています。これまでに4—5回は全編を見ています。DVD全集を持っているのですが、今回の再放送も楽しみにしていて子供たちと見ています。
明治時代、東北の貧しい寒村で生まれたおしんは7歳で奉公に出され、四六時中が仕事でした。休みなど無い。身を粉にして働き、やがて経営者として大成します。
戦後日本の経済成長を支えた人々の働き方も半端がなかった。私の経営の師だった木村塾の木村勝男会長もそうです。昨年7月に惜しくもご逝去されましたが(享年78)、生涯に30以上のビジネスを手掛けたその人生は、まさに鬼気迫ります。
木村会長の職業人としての基礎体力を培ったのが若い時代の猛烈な働きぶりでした。中学校2年(14歳)で父親に死なれてから、長男として家族6人を食べさせるために働きづめに働いています。
昭和32年(1957年)、17歳で故郷の島根県から大阪に単身で上がってきています。最初は飯場(工事現場)。故郷に送金するために生活を切り詰めてお金を貯める日々。銭湯に入るお金が惜しくて水道で体を洗ったそうです。「飯場もええが、タクシー運転手になりたかった。雨でも仕事があるから」とおっしゃいました。
「家族を養っていかんといかん。お米は大阪に来て食べたけど、向こう(島根)では雑穀やった。米(雑穀)びつの蓋を開けて『これで3日持つ、4日持つ』と毎日が心配。それが家庭経営やった」
その幼少期からの苦労の結果として「稼ぐ力」がつき、数字を読む力も強くなった。そう述懐されておられます。
「戦後は食えなかった。食うことが大変。皆さんはメシを食うということがどういうことか分からない。いまはホームレスの人がみんな肥えてますもんな。我々は栄養失調で死ぬんです。食うためには何でもやるんです」
豊かな時代しか知らない我々には、もはや想像できない話です。
当社の創業者である私の祖父母も、農村から裸一貫で焼け野原の大阪に出てきています。貧乏との闘い。曲がった鉄筋を買ってきて真っすぐに伸ばして高く売る。そんな仕事から始めています。貧しさの中から商売を少しずつ太くすることに全精力を傾けていました。
私の知っている、とくに祖母の姿はいつも働いている姿でした。私が「おしん」を好きなのは、そんな祖母によく重なるからです。
■ 変化に対応して会社を変えること
さて、木村会長は数々の名言を残しています。その一つが「経営は変化対応業」というものです。
「生きてると世の中の変化は避けられへん。力のある者が、賢い者が、大きな組織が、有名な会社が残るのではない。世の中の変化に対応したものが残る」
木村会長の言葉からいつも力をもらいます。世の中の変化に対応すること。そして働いてくれる社員が喜ぶように会社を変えていくこと。
遅ればせながらですが、来年から完全週休2日となります。小さな一歩ですが、また会社を磨く大きな変化になりそうです。社員の皆さんの積極的な努力のおかげです。ありがとうございます。
2019年5月24日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三