【命の使い途】
きょうは給料袋のメッセージを書きました。先月、社員のお父様が急逝されたことから、親の恩を振り返りました。
(通算126号)
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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ
先月のこと、A君のお父様が急逝されました。人生には「まさか」があると言われます。ご家族に降りかかった余りにものことに、お掛けする言葉が見つかりません。
A君は入社以来、着実に実力を付けてくれました。社内の隅々にまで気を配ることのできる人柄で、人望も厚い。私たちにとって代わりのきかない人財です。家庭も順風満帆。お父様にとってこれからますます楽しみだったはず。突然の旅立ち、どれほど心残りだったでしょうか。ご冥福を心よりお祈りします。
この月給文章でよく書きますが、私も十九年前に父を見送っています。享年六十二でした。ひとの訃報に接するたびに父を思い出します。とくに自分に子供が生まれてからは、なおのこと。
私は長女が七歳、長男が二歳。まだ小さくて手のかかることばかり。だから、自分も両親からこんな風に育ててもらったのだと実感します。病気をすれば心配し、ちょっと目を離した隙にいなくなれば不安になり、わがままを言い出せばしつけや教育に悩みます。
私も両親にはさんざん心配をかけ、わがままを貫きました。お金もたくさん使ってもらいました。究極のわがままは「会社を継がない」と言い放って東京へ出て行ったこと。新聞記者を志した二十代までのエピソードです。
それにしても父はよく私の勝手を許したものです。創業者夫婦の婿養子だった父にとって、最大の使命は「跡取り」を残すことだったはず。体を張って四六時中仕事をした父にとって、会社は分身のようなもの。それなのに、好き勝手をする私をとがめるどころか、応援すらしてくれました。私が東京から送った記事も、几帳面にキチンと保管してくれていました。
父は私の存在そのものを自分の願望に入れてくれていた。私の望みをかなえることを望みとしてくれていた。親心としか思えません。だから私も父のことが大好きで、がん宣告で父の命に危機が迫ったとき、私はあれほどやりたかった新聞記者の職をすぐに捨てています。
おかげで父とは最後の一年間いっしょに働けました。最期の病床で「わしが死んだら会社に一億円の生命保険が入る、それでがんばれ」と父は言い残しました。バブル崩壊後の不景気がどん底まで落ち込んだころ。会社の未来と私の将来を案じながらの旅立ちでした。
父の葬儀は社葬でした。葬儀委員長を務めてくださった小林鋼材の小林廣重社長(当時)に「なんにも親孝行できないままに父に死なれてしまった」と私は言いました。すると「あなたがお父様から受けた恩を、将来生まれてくるあなたのお子さんに返しなさい」とおっしゃいました。これが「恩送り」ということは、ずいぶん後になって知りました。
父が亡くなっても、父がいない気がいつまでたってもしませんでした。とくに夜、事務所でひとり仕事をしていたりすると、父がふと出てきそうな感触がいつまでもしていました。
高校の古典の授業で「死ぬ」という言葉の尊敬語が「おかくれになる」と学んだことを思い出しました。天皇など身分の高い人が死ぬことを、昔はこう表現したそうです。奥行きのある日本語です。父はお隠れになった、そう肌身で感じました。
この言葉は、その後も身近な人が亡くなるたびに思い出します。去年の春に見送った小林鋼業の小林正和社長(享年四十五)も、そうです。同じ鉄屋の社長どうし、気心が知れた正和さん。私にとっては二人でサシ飲みできる数少ない経営者でした。一年半がたっても、まだ彼がいない気がしません。
私はいま四十九歳。同世代や年下が病気で亡くなることも、正和さんのほかにもいらっしゃいます。ひるがえって私自身は子供がまだ小さい。長男が大学を出るころ、私は七十歳近くになります。私は生涯現役を貫くつもりですが、寿命がいくらなのかは神のみぞ知ること。父はがんで六十二歳でした。私にできる事前対応は健康に留意すること、そしていざという時のために十分な保険に入っておくこと。
そして会社として出来る最大の事前対応は人を育てることです。社内ではこの数年来、仕事の教え合いが続いています。自分が不在の時でも仕事がスムーズに回るように。有給休暇を消化しやすい職場を作るためでもあります。仕事を覚えあうことで「お互いの立場を理解する」ことも狙いの一つ。ずいぶんと仕事のシェアが進み、社員どうしがお互いに代替できる業務が増えてきました。
その「教え合い」の最後の仕上げは、社長の代わりになる人材の育成です。私も生身の人間。生涯現役のつもりでいても突然の事故や病気は起こりえる。そんなときに会社を操縦する経営者を育てること。それが私の最大の仕事です。
私が生まれながらに三代目を期待されたように、私の子供たちにその期待がかからないではありません。しかし余りにも幼い。将来どんな願望を持つかは、本人次第。まだまだ先の長い話です。だから私の身に何があっても経営が続くように、後継者を育成することが大事。バトンを受け継ぐ経営者を育てることです。
時間とは命。砂時計の砂が落ちていくかのごとく、もとには戻りません。株式会社フォーバルの大久保秀夫会長は「余命三カ月の決断」という話をよくされます。仮にそう宣告されたとして、なおそう生きるか、そう判断するか。そのような死生観が大事だとおっしゃいます。
私は三十歳で父を見送って社長を継ぎ、四十歳で大赤字により会社経営の目的を知りました。さまざまな学びを取り入れ、会社が徐々に良くなりました。経営者になって来年で二十年ですが、ようやくスタートラインに立てた気がします。
「使命」という言葉は命を使うと書きます。町工場の跡取り息子に生まれたものの一時は別の道を志し、そして家業に戻り、さまざまな経験からいまは天職だと思っています。良い会社を作ること、縁あって来ていただいた社員さんに幸せを感じてもらうこと。すなわち中小企業経営を通して社会の役に立つこと。それが私の使命です。親からいただいた命の使い途です。
いま会社は過去最高に良い状態です。家庭は妻の支えがあり、子供たちもすくすくと育っています。父が見てくれたらどんなに安心することか。
いや。父は会社のいまをよく知っており、家族のことも見てくれていて、この文章も恐らく読んでいることでしょう。なにせ「おかくれ」になっているだけですから。
A君のお父様のご不幸に接して、あらためて親の恩を考えました。肉親との別れは、人生でこれ以上ない悲しみです。生んでもらい、育てていただき、いろんなことを許してもらいました。
私もいずれはそちらに行く身。自分の選んだ生き方を正解にしていく人生を歩みます。
二〇一八年十一月二十二日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三