人間の強さ、そして優しさ [給料袋メッセージ 192]

【人間の強さ、そして優しさ】

きょうは25日、給料袋のメッセージを書きました。
 

来月、5月13日(土)に福島県から2人の友人を関西にお招きして講演会をします。
なぜか? その経緯を書きました。その原点は高校時代にさかのぼります。
 

彼らから教えられたことは、私のこれからの人生を力強く支えてくれるものです。
 

[通算 192号]
 

 

 

 

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

今月は私の社外活動について書いてみます。

40歳から経営の学びを始めました。

すると交友関係が広がり、全国各地に心を通わせる友人がたくさんできました。

その中でもとても大切な友人2人を、このほど関西にお招きして講演してもらいます。

ともに福島県の出身です。なぜ彼らなのか、その理由です。

■ かつて記者を志した原点

私は坂元鋼材の3代目に生まれながらも、

若い時は「会社を継がずに新聞記者になる」という夢を持っていました。

その原点は高校1年の時に広島の原爆資料館を訪れたことでした。

冷戦時代で、米ソの核開発競争が激化していました。

 

当時読んだ書物にあった記述です。

「核兵器のスイッチを押すか否かは、まだ米ソ首脳にゆだねられている。

しかし原子力発電所の中では既にそのスイッチが押されていて、

その容器が壊れ始めている」

事実、アメリカ(スリーマイル島原発)、

ソ連(チェルノブイリ原発)で事故が起き、

次は日本ではないかと言われていました。

そんな私は学校を出てマスコミの一角(時事通信社)で記者を4年務めました。

しかし父の急病により家業に入ることを選択。

会社経営に多忙なままの日々を送ります。
 

そして2011年、福島原発の事故。

遠く離れた関西でテレビ画面を見るしかなかった自分は無力でした。
 

そんな私が福島原発の被災地を訪れたのはずいぶん遅かった。

2016年3月、そして2017年9月でした。

すでに被災から5-6年たった現地をみて、戦慄しました。
 

■ 被災5年目の福島・浜通り
 

2016年3月、福島県いわき市から太平洋沿い(浜通り)の国道6号線を

仙台に向けて北上しました。

 

地元の経営者たちによる解説付きのバスツアーでした。

建前は一切なし。現地の裏も表も語られました。
 

原発被災の現場、とくに帰還困難地域である双葉町・浪江町の惨状。

そこは5年がたっても時間が止まっていました。
 

地震や津波で被災したままの姿をさらす家屋、車両、街並み。
「ガレキこそ取り除かれたが、当時と全然変わっていない」

地元の経営者の方々から聴く話は生々しい。

震災と原発事故の直後、住民は放射能から逃れるため着の身着のままのような状態で避難。
たくさんの家屋や商店、会社などに泥棒が入りました。

頑丈な金庫もこじ開けられるなど「プロの仕業」です。
 

財布や指輪など金目の物が抜き取られた死体も。火事場泥棒の現実でした。
私が持参した放射線測定器は、原発が近づくにつれて数値が急上昇。

 

東京やいわき市で0.1マイクロシーベルト程度だったのが、

第1原発の真横を通過するときには最大5マイクロシーベルト(東京・いわきの50倍)まで跳ね上がりました。

メーターは初めて「危険」の文字を表示しました。
 

しかし私などは単なる「通過者」です。

放射線量の高いところを一時的に通っても大した問題はない。

しかし現地の人々の問題はそこに居住するということ。
 

家屋も商店も自動車も、いたる所で被災した5年前のまま放置されていました。

まるでSF小説の世界のように冷たく、異空間でした。
 

岩手県から参加した経営者の言葉が胸に響きました。
 

「岩手や宮城も大きな被害を受けたが、復興は着実に進んでいる。

しかしここはいまも震災の途中だ」
 

■ 被災6年目の同地
 

その翌年(2017年9月)、4日間の現地視察ツアーに参加しました。

震災後6年がたってもやはり手つかずのままの廃墟がさらされていました。
 

原発近くにある住宅街「夜ノ森地区」、そこの中学校の光景が忘れられません。

震災時は卒業式の最中だった。

避難したまま帰還が困難に。

体育館は卒業式当時の混乱ぶりをそのままとどめていました。
 

周囲の真新しい住宅街も、無人。

6年半の時間が止まったまま。

痛ましいとしか言いようのない光景でした。
 

原発の近くに位置し、津波にあった漁港「請戸(うけど)」の悲劇にも胸が詰まりました。
3.11の翌朝、生存者が「助けてくれ」と言いながらクラクションをいっぱいに鳴らした。

それを消防の人たちは聞いていた。

しかし原発事故のために助けに行くことができない。

 

無数にある当時の悲劇の中でも、とくに心痛むものです。
 

■ 福島とのご縁
 

その翌年(2018年)、また福島県を訪れました。

こんどは沿岸部ではなく、内陸部(郡山市)。

研修のアシスタントとして3日間の講座に参加しました。
 

地元の方々と、同じ学びをする者として密に交流。

関西から来た私を温かく迎えてくださいました。

地域は離れても志を同じくし、ともに成長と貢献を目指す仲間。

一瞬で打ち解けました。
 

その時に出会った2人を、このほど関西にお招きして講演会をするということです。

■ 責任、自分が源
 

お1人が小島清一郎さん。

税理士事務所の2代目経営者です。

父親から事業を受け継いだものの、社員の大量離職という洗礼を浴びます。

さらにお母様をガンで亡くされます。私の父と同じ膵臓ガンでした。

そこに東日本大震災、原発事故が重なりました。
 

彼から聞く福島の現状に、やはり胸を痛めます。
 

「想像できますか。同じ日本なのに人の住めない場所があるのです。

県外への人口流出が止まらない、とくに女性が県外に出る。

自殺率も高い。それが放射能の現実です」
 

コロナ期間中にもマグニチュード7が2度。

それも「東日本大震災のときよりも強い揺れだった」と体感しています。

小島さんはそんな逆境にありながらも事業承継を着実に進め、会社を大きく伸ばしています。

その原動力は「考え方」でした。
 

外の世界で何が起ころうとも、それに影響されないこと。

すべては自分の責任、自分が源。
 

起きる出来事に右往左往せず、自分のコントロールできることに集中すること。
自分は豊かになる、そう決めること。
 

その心構え、決心の強さに当時もいまも感動します。

自分が同じ状況に置かれたとき、果たして小島さんのように強く考えることができるだろうか。
 

■ 自分自身に誠実であること
 

そしてもう1人が鈴木裕一さん。鍼灸師です。

生まれつきの視覚障害をお持ちで、左目が不自由。

そのことからの心の葛藤とたたかった半生をお持ちです。
 

郡山でのアシスタントを終えた2カ月後、私は福島市での勉強会に講師として招かれました。

鈴木さんとの再会を楽しみにしていましたが、勉強会の場に彼がいない。
 

なんとその時、もともと見えなかった左目だけでなく右目にも問題が生じ、入院されていました。

私は大阪に帰る直前にお見舞いに伺いました。
 

私の急な訪問にもかかわらず、病室を訪れるとなんと「正座」してのお迎えです。
一時は見えなくなった右目の視力も徐々に回復し、元気な表情を見せてくれました。

 

両目がまったく見えなかった2週間ほどの間、自分の思考を集中させておられました。
その結果、降ってきたのが「自己誠実感」という言葉。
 

この世に生れ落ちてきて、自分が本当に求めているものは何か、

それを知らぬままにいることこそが最大の無知であり、最大のコストだ、そう気づいた。
 

自分の求めるものに対して誠実であろうとすることが大事。
そう静かにおっしゃいました。
 

その病室は、古寺の本堂のようにキリッと引き締まった空気でした。

ベッドの上の鈴木さんが発する清冽な言葉の数々は、まるで高僧の説法のようでした。
 

■ 障がいは神様からのプレゼント
 

生まれつきの視覚障がいで「どうせ自分なんて価値がない」と思っていた過去。

母親に対しても「なんで障がいを持って産んだんだ」という感情をずっと抱いていました。
 

しかし人生理念、人生の目的を深め続けるうちに母親の心情がわかり始めます。

子供のころからの気持ちを正直に伝えると、母親は泣きました。
 

「あなたの障がいのことで心が痛かった。

いろんなことがあってあなたに辛く当たった。申し訳なかった」

母親も最善を生きていたんだ、そう気づかされました。
 

「母の気持ちを知らずに自分のことだけを考えて生きてきた。

すごい親不孝だった、大反省した。

そう考えることが出来ると、人生が好転していきました」
 

障がいに対する考えも変化しました。

「どうせ」と思っていたけれども、そうではない。

神様が与えたプレゼントだ、ラッキーアイテムなんだ。

考え方が変われば、治療家としての思考も深まりました。

患者さんは体や心の痛みを抱えている。

障がいを持つ自分だからこそ親身になれる。
 

「施術を通して、その方々の心に寄り添う、共に生きる」
そんな理念を考えています。
 

原発のある浜通り(浪江町)から避難してきた人を治療したときのこと。

「Fukushima 50」という映画の話になりました。

事故直後に原発でたたかった人々を描いた映画です。
 

実は、原発事故が起きて最初に消防に行ったのは浪江の人だった。

しかし映画では全然触れられていない。
 

「原発でたらい回しにされて、映画ができたら自分たちのことはまったく取り入れられていない。

何回ショックを受ければいいのか。真の復興はほど遠い」
 

鈴木さんを通して聴く、福島の人々の思いの淵です。
 

■ 人間の強さ、そして優しさ
 

お二人の話を聞くと、現地の人のいまも続く苦しみに心が痛みます。
西日本に住む私には、この感覚がどうしてもつかめなかった。

学生時代からこの問題に関心を持ち続けていたはずなのに。
 

彼らを関西にお招きする機会を作ることは、私なりの社会貢献であり、使命と思っています。
小島さん、鈴木さんから教えられるのは人間の強さ、そして優しさです。
 

私も経営者としてそれなりの苦労をしてきたような顔をしていますが、

彼らのたどった半生を考えると自分の甘さに恥じ入るばかりです。
 

同じ境遇に置かれたとき、そこまで強くなれるだろうか、そこまで優しくなれるだろうか。
 

「自分には直接コントロールできないこと」
そういう風に二人は表現します。

天災であり、原発事故であり、障がいもそうです。

そんな大きな葛藤に出くわしたとき、果たして二人のように逃げずに、

他責にせずに、真正面から「自分の責任」と断言する生き方ができるかどうか。
 

彼らの人生体験に触れて、弱い自分が鍛えられます。
人生は出会いで決まる。この出会いに感謝しています。
 

2023年4月25日
坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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