日本と中国、その過去・現在・未来 [給料袋メッセージ 199]

【日本と中国、その過去・現在・未来】

 

10月の給料袋メッセージです。

今月の社内勉強会では「日本経済の見通し」「中国経済の発展」をテーマに学びました。

私の個人的な中国体験を交えて、勉強会を振り返って書いてみました。

[通算199号] 

 

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社員の皆さん、ご家族の皆さんへ

 

いつも社業への貢献、ありがとうございます。

今月は、少し前の時代を振り返りながら、これから予想される未来について考えてみます。

 

■ 私が中国に触れたきっかけ

 

今年7月に作家の森村誠一さんが逝去されました。

推理小説の大家でしたが、私にとっては「悪魔の飽食」という作品がすべてでした。

 

旧日本軍が中国の満州(ハルピン)で細菌兵器を製造した731部隊。

それは中国人やロシア人など3000人におよぶ生体実験で悪名高い組織です。

森村氏は1980年前後に元隊員たちへ丹念な取材を試みます。

その重い口を開かせ、部隊の闇の歴史を明らかにしました。

 

1985年、高校1年生だった私はこの書物のとりこになりました。

平時は善良な市民であり優秀な科学者であるにもかかわらず、

ひとたび戦争という集団狂気にとりつかれると残虐行為を平然となす。

 

その身の毛もよだつようなドキュメントの迫真の筆致。

戦争・侵略というものは、かくも人間の精神をマヒさせるものか。

生涯忘れられない読書体験でした。

 

それは私が中国やアジア、そして日本の近代史に興味を持ち、

のちに新聞記者を目指す下地となりました。

私にとって日中友好の原点でもあります。

 

その後1991年、大学3年のときに友人と2人でリュックを担いで3週間の中国旅行に出ました。

上海から20時間ほどの列車の旅で北京へ。

さらに20時間ほどかけてのハルピンに向かいました。

訪れたのが731部隊跡でした。

 

ハルピン都心から20キロほど離れた畑の真っただ中に731部隊はありました。

書物で知っていた「お化け煙突」が視界に入ったときの感動を忘れることが出来ません。

終戦間際に施設もろとも爆破したものの、破壊しきれず。

戦後46年たってもその残骸をさらし続けていました。

生体実験で非業の死を遂げた3000人と言われる方々の無念を思いました。

 

 

 

▲2014年に再訪したハルピンにて。731部隊跡。

 

 

■ 30年前の中国

 

当時の中国は混迷を深めていました。

文化大革命の混乱が終わって15年。

民主化を求める学生たちを人民解放軍が蹂躙した天安門事件からまだ2年。

 

経済は低迷し、まさに開発途上国そのもの。
平均賃金は日本円で月4000円(年収5万円)と言われていました。

 

首都の北京駅ですら駅構内で寝泊まりする中国人でごった返し、不気味でした。

列車の切符を買うにも長蛇の列、しかも割り込み、飛び交う怒号。

いったい、この国はどうなっているのか――。

強烈な中国体験の旅でした。

 

おもえば、その1991年の日本はバブル最後の年。

「強い円」が海外資産を買い漁り、日本人が鼻高々だった時代でした。

 

その後、私の中国熱は高じました。

1993年から94年にかけて吉林省(長春市)に2年間留学します。

731部隊から始まった旧満州への関心が、私を中国東北部へと駆り立てました。

 

ハルピンが帝政ロシアの影響が色濃いのに対して、長春は日本の残滓の強い街。

戦後50年近くになっても、満州時代の建物がほとんどそのまま使われていました。

古くさびれた街並み、低迷する経済、そして政治的にも不自由。大変な社会でした。

長春での2年間の留学時代は、私のまさに青春です。

 

中国人学生、韓国人留学生、そして北朝鮮留学生との交流もふくめて、まさに日中韓(朝)、

国境を越えた友情を味わった2年間でした。

 

 

 

▲中国留学時代(1993年) ルームメイトで親友の韓国人・金俊淵と。

 

 

■ 急成長した中国

 

ときを経て2009年、中小企業家同友会の「訪中団」に初参加して、久しぶりに中国を訪問しました。

前年に北京オリンピックが開催されており、労働者の賃金は日本円で月額4万円ほどと言われていました。

私の留学時代よりも10倍に拡大したわけです。

 

上海の巨大な新空港、リニアモーターカー、林立する超高層ビル群を体験しました。

しかし「巨大な中国、その『ごく一部』が豊かになったのだ」――。

そう思い込む自分がいました。

 

その後、毎年のように訪中団に参加しましたが、

私の中国観が大きく変わったのが2015年でした(訪問地・廈門=アモイ)。

 

中国は訪れるたびに高層ビルが増えている。

「マンションは一室100平米が普通で、日本円で1億円クラスはザラ」。

その言葉を聞いたとき自分自身の経済感覚に置き換えて驚きました。

まさか、あの中国が――。

 

労働者の賃金は都市住民では8万円以上と聞きました。

しかし、それ以上に不動産が高騰したため「資産バブル」による恩恵を受けていたのでした。

 

このころ、かつて私の長春(留学)時代に親しくしていた中国人が大阪にやって来ました。

ほぼ20年ぶりの再会。

苦学生だった彼は外資系自動車メーカー(仏プジョー)で大出世していました。

 

刻苦勉励の果てに30代にして東北3省(遼寧・吉林・黒龍江)と

内蒙古エリアの営業統括として大成功。

「投資用マンションは5戸持っている」と豪語しました。

 

美しい奥様を帯同して来日したその姿は、まさに自信満々。

かつて長春で粗末な学生寮にいた彼と同一人物だとは、にわかには信じられない思いでした。

 

■ 中国はもはや非常に豊か、日本はすでに貧乏

 

そして決定的だったのが2018年の訪中団(大連)でした。

大連に進出して25年になる日本人経営者は

「中国はもはや非常に豊か。日本はすでに貧乏」と喝破されました。

 

「だからインバウンド(訪日旅行客)が『買い漁り』に来る。

むかし日本人が東南アジアに買い物に出かけて『安い、安い』と言っていた。

いま中国人が日本に来てそうしている」

 

「GDPは2010年に日本を追い抜き、もう2.5倍差になっている。

ビジネス上は周回遅れ、後ろが見えない状態。

『かつて文革で失敗して30—40年だけ日本にリードを許したけど、もう一生負けないよ』という感じだ」

 

バブル崩壊後の「失われた30年」で日中の経済的立場は逆転しました。

インバウンドの中国人旅行客の金遣いを見ると、

中国の都市住民の豊かさは一般的な日本人よりも上にみえます。

将来に対する自信、その違いを感じます。

 

■ これから40年間に起こること

 

そして現在(2023年)です。

昨年からの大幅な円安で日本経済は国際的な地位を大きく落としました。

日中のGDP格差はすでに4倍以上に開いています。

 

昨年は「1人当たりGDP」で韓国・台湾にも抜かれました。

賃金は数年前から韓国に逆転されています。

 

さらに「40年後、中国のGDPは日本の10倍」という予測があります。

1人当たりGDPが同じ水準となり、人口は10倍。

すなわち経済規模が10倍になる。

 

これからどのようなビジネスをしようとも、

隣国の大発展、その可能性を頭に置いておかねばならない。

 

足元の中国経済は不動産バブルが弾けたとの観測があり、先行きは不透明。

一人っ子政策を長引かせてしまったために少子高齢化の勢いも日本以上に厳しいといわれます。

 

しかし過去30年間の中国の急成長、そして日本の停滞を見ると

「40年後の10倍差」も現実味を帯びてきます。

 

 

▲野口悠紀雄氏の記事より引用
https://gendai.media/articles/-/98178

 

 

 

■ 本来は厳しかった日本経済

 

日本はこれからどうすべきか。

それを考えるために歴史の軸をもっと前に戻してみると、

本来は厳しかった日本経済の様子が分かります。

 

中世や近世は置くとして、明治以後を見てみます。

 

明治維新(1867年)は156年前ですから、わずか5世代ほど前です。

日清戦争(1894年)を契機に大日本帝国は海外に版図を広げます。

朝鮮半島や中国・東南アジア各地に日本人が押し出していきました。

 

その軍国主義の果てに、生体実験の731部隊も位置します。

圧倒的な軍事力・経済力の格差があってこそ、

あのような非人間的な組織が存在しえたのだと思いをいたします。

 

しかし、日本の一般庶民の生活は「豊か」だったのでしょうか。

もともとは農業国であり、繊維などの軽工業から出発した近代日本の一般庶民の生活は

「おしん」「あゝ野麦峠」などが活写する世界です。

質素で、勤勉で、一心不乱に働くつつましい人々が経済を支えてくれました。

 

加えて、過酷な歴史を忘れることはできません。

海外への移民が世界各地(ハワイ、北米、中南米、そして満州)へと

出ていかざるを得なかったのは、国内で食べることが出来なかったのが主因です。

 

食うために海外に生活の拠点を移さざるをえなかった。

現在の視点から見ると、想像できない歴史です。

 

明治から戦前にかけて、国内でも経済的に裕福な人々は一握りだったはず。

庶民にとっては戦争に駆り出されたり、空襲で焼け出されたりと、日本史上でも最も過酷な時代でした。

それを私たちのすぐ上の世代が経験しています。

 

敗戦(1945年)はわずか78年前、そこから戦後の混乱期が続きます。

坂元鋼材の創業者(私の祖父母)も、戦前戦後の厳しかった時代を生き抜いて地道な商売を続けました。

 

「もはや戦後ではない」と言われた1956年くらいまでは、

相当に厳しかった日本経済と言えるのではないでしょうか。

 

そうすると日本が「絶好調」といえたのは東京オリンピック(1964年)から

バブル崩壊までの30年間くらいかもしれません。

その後に「失われた30年」となったわけです。

 

■ 日本の在り方、企業の在り方

 

さて、これからです。少子化と人口減少が経済の行方に決定的な影響を与えます。

日本経済が米中、そして次なる大国と予想されるインド、

それらの大国に比して小さな存在になる公算は大きい。

 

まるで大企業と中小企業のような違いになるのでしょうか。

 

もともとは世界規模でみると中小企業のような存在だった日本。

それが過去の100年ほどだけは世界的に大きな存在感を示した、そうとも解釈できます。

 

しかし、考えるべきはそこからだと思います。

大企業であることが幸せなり善であり、中小企業がそうではないなどとは、まったく言えない。

それと同じことが、これからの米中印が圧倒するであろう世界経済にあっての日本の立ち位置のような気がします。

 

そのカギは何でしょうか?

 

大企業になくて、小さくとも長く続いてきた中小企業が大切にしてきた心であり考え方。

そこに日本がこれから生き残るヒントがあるような気がします。

 

量でなく質、社員満足と顧客満足、社会貢献、長期的視点に立っての経営。

そのあたりに中小企業、そして日本の生きる道があるような気がします。

 

私たちの日々の仕事、会社づくりは日本経済を根底から支えている。

それは世界の大きな流れを理解せずしては、なしえない。それを実感しながら書きました。

 

今月もお読みいただき、ありがとうございます。

 

2023年10月25日

坂元鋼材株式会社 代表取締役 坂元正三

 

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